トクトル

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トクトルさんの日記

(Web全体に公開)

2014年
01月30日
20:29

欲に打ち勝つ神の愛

今年も早いものでもう2月になろうとしている。
私の母が、家の上にたった一つつぼみだけ、花が咲こうとしているのだと聞き、寒さの中に生きると言う事、生命の大切さを覚えた。
さて、今日は、田中 英光さんの書いた小説のオリンポスの果実と言う物語から、人を愛する事と人の思いの強さと罪の事について
また、愛情について学びたいと思う。
まず、田中英光と言う人物は、東京生まれ、早稲田大学政治経済学部卒大学在学中に、漕艇選手として、ロサンゼルスオリンピックに
出場し、今回の物語は、その経験を生かした恋愛と若き20代の頃の青春物語である。

太宰 治を尊敬し、私淑しており、私個人として思うのだが、今回紹介するオリンポスの果実は、太宰の作品と似ている傾向がある。
何が似ているのかと言うならば、例えば、太宰は、人間失格を書き、その主人公は、何度か恋愛の相手と心中しようとするのだが、
実際、太宰も、フィクションとは一概に言えず、実際に恋愛の相手と一緒に心中した。
太宰は、自殺するのであるが、自分の自叙伝であるかのような、作品であり、田中さんの作品の場合も、実際田中さんが、この主人公
大坂と熊田 秋子のように、田中も漕艇選手であり、相良 八重が、熊田 秋子のモチーフとされており、太宰と違うのは、田中の場合
恐らくであるが、田中=大阪、熊本=相良といったように、フィクションなのだけれども、実際のノンフィクションである、田中の関係し
た人生、人間関係を模写した物を、そのまま文学として発表しているような感じがする。

当時1932年のロサンゼルスオリンピックにボート競技選手に選ばれた坂本28歳になって女房子供ができてから書いた作品という所から物語は始まる。
主人公の大坂が、20歳位の頃で、満州事変が、1931年頃であったので、当時は、少し前が、世界恐慌であったので、とても大変な世であった。
初め大坂(ダイハン)は、横浜から、船で、上述したオリンピックに、出場する為また、その前の演習も兼ねて、ハワイ、サンフランシスコなどへ行く、
その船のなかで、熊本 秋子に会う。
主人公と同じ高知の生まれ、そして、隣りの床屋さんの家の何の変哲もない普通の女の人でも、主人公にとっては、そうではなかった。
一目見てから好きになり、その好きとは、安易な肉体関係を持つ事よりも、むしろ、文学的なメルヘン的な思いを抱いたそうです。
その頃から、犬のように、熊本の事を追い回すようになり、何をするにも、熊本の事を意識するようになる。
しかし、自分は、今は競艇の選手であるという事との葛藤に若き青年である。大坂は、苦しむ。
初めの内は、2人の関係は、少なからず、うまくいっていた。
熊本の知合いの内田と熊本と主人公と競艇仲間で、卓球をやったり男女仲良く話す事が1人のオリンピック選手であるという自覚の尊厳により、許されていた。
当時の日本は、今とは違い手を握ったりする事だけでも、ひどく中傷されるような時代であった。
だけども、主人公と熊本はこの頃まて゛楽しく過ごす。
主人公も練習に身が入り、元来主人公は、文学青年で体会系の人ではなく何事にも引っ込み事案な方であったが、全てが順調に言った。
ところが、男女のなかで、いかがわしい事件が起きてから、男女が一緒に遊ぶどころか話す事さえ禁じられてしまう。
主人公が、熊本と懇意であった事は、漕艇仲間全員がしっていたので、元来弱気で経験の浅い主人公は、さんざんイジメられてしまう。
でも、熊本が後に、外人選手と二人でいたといううわさがたった時も、熊本の事となると彼は引き下がらない。
それだけ、思いが強かったからだ、熊本の方も、上述した男女の事件があり、ちょうどその頃、ハワイにつく頃であったが、もう、2人ともこれからは、お互い
選手としての自覚を持つ必要があり、恋愛にうつつを抜かしている時ではないと思っていたので、熊本は、こんなにしていて、みつけられては、大変やわ、これ
あげましょうと言って、杏の実を、主人公にあげる。
主人公は、彼女の事に近づけなけなくなった変わりに赤い日記にその思いを書くようになり、ロサンゼルスで後に買う財布に、その杏の実を大事に持っていた。
練習にも精彩さが欠け、先輩から怒られ、そんな中、副監督から貸してもらった、コダックを主人公は失くしてしまい、その事の猜疑心から熊本の事をあまり、
考えなくなる。
でも心はそうでなかった。
そして、最終的には、ロサンゼルスオリンピックに主人公も熊本も参加する。
結果は、第一次、二次ともに3位であり、熊本の高跳びの成績は、良い成績ではなかった。
しかし、漕艇の日本の選手は、瞬発力こそなかったのだが、もし、もう少し距離があれば、2位を追い越していたであろう、すさましい追い上げをみせ、そして練
習は、他のどの国よりもたくさんこなしていた。
海外の国からは、非科学的であるように見られていたが、日本人は、(第10回ロサンゼルスオリンピックの開会式で入場行進する日本選手団。金メダル7個を獲得
した=昭和7年7月30日(金メダル、銀メダル各7個、銅メダル4個という大成果を挙げた。特に男子競泳陣は6種目中5種目に優勝、)という大挙を成し遂げて
いた。
漕艇は、体の小さいな日本人には、向かない競技であったので、いい成績を残せなかったが、私がこの物語を読んで、関心したのは、たとえ4挺身半の開きがあっ
たとしても日本の選手は、ゴールまで全力を尽くし、倒れる程に、頑張ったと言う事である。
お国の為に、彼らは必至でありました。
そして、それは、過去2年間の血と汗終った合図でもあった。
でも、良い事もあった、きっと神様からのご褒美だったのだろう。
ダンスフォールでの楽しいひと時、プールで黒ん坊(日本人) の頭にボール当て、仕掛けが破れ、右上の鳥かごに腰掛けていた、アメリカ美人がプールに落ちたりし
て楽しんだ事、射撃場本物のインディアンと腕相撲、ハリウッド見物、スタア、ロジタ・モレノと踊ったり、チャイニンズ・グロオマン劇場では、接吻の長さだけ、
気になりはしたが、ベニスの町や様々な観光地に行く、そんな中も主人公は、熊本の事を絶えず思い出す。劇場でのキスの長さ、また、ベニスに、バスで向かう途
中、女子だけがのっている、バスから、熊本が、人形を窓に押し付け、大坂(ダイハン)主人公のの注意引こうとする、わざとらしく、似合わない、大胆さがにがに
がしく、大変に醜くみえた。彼が好きだったのは、素直で大胆な彼女であったから。
でも、もしかすると、彼の彼女に対する愛に反比例するかのような、彼の真っすぐ彼女を愛しているのに、行動にだしてくれない彼の態度が、彼女をこのように素
直でない作られた行動をさせてしまったのかもしれない。
ハワイから、今迄書いた時まで、主人公は、熊本に何もしてはいない。好きだとか嫌いだとか直接は言わないでも、彼は、家を出る前に買った啄木歌集「悲しき玩
具」に熊本は、自分の楽しかった思いを書き、また、上述した熊本が、外人と二人でいた疑惑の時、熊本に主人公の大坂は、「秋っぺさん、泣くのはおよしよ。も
う横浜は、近いんだ」と慰め、笑ってといった時、彼女はにっこりと笑う。
少しづつでは、あるが距離を縮めてはいた。
そして、横浜へ帰ってから、彼女に手紙をだしている。
手紙を返事を待ち、貞潔を守っていた彼ですが、皮肉にも返事はかえって来ない、その内、主人公は、兄の指導下で、本格的な左翼運動、学内のサークルで検挙、
工場、ストライキ、捕まる。等々若者が通る若き日の闘争、ヤンガー・ジェネレーションの日々を過ごし、徴兵制度で徴兵され、戦地へ赴く。
その戦地の中で、あなたはいったいぼくが好きだったのでしょうか。
この物語はそこで終っている。
その箇所から、最初に戻ると、最初のページには、10年後の結婚した主人公が、杏の実を庭に捨てるシーン、また、30歳位の熊本が九州の方で女学校の体操の
先生をしていると言う事が書かれている。
私はこの最初のページに、熊本へ対する主人公の愛の深さ強さを感じる。
最初のページではないが、(オリンピックの翌々年熱狂的な、文学青年になり、あなたとの思い出書きたく、原稿560枚になった。)という言葉の中に、心の思い強さ
深さが560枚と言う、原稿そして、著者田中自身の人を愛する強き思いが描かれている。
モチーフとなった、熊本 秋子こと相良 八重は、ノンフィクションの実際に存在した人物であるが、この人は、結婚をしている。
このオリンポスの果実の物語では、フィクションだが、熊本が後に結婚したのかは書かれてはいない。
でも、実際、田中は結婚して、10年も歳月が流れて、思いも薄れてきていたのであるし、小説で、熊本が結婚したと書く事は出来たのであるが、敢えて書かなか
った事に、その愛の深さが分かる。
この物語から教わる事は、愛と罪との事だ。
神学用語で、ハマルティア=罪という的外れという意味合いにもとられるこの意味がある。
また、人の強き思いを聖書では、偶像崇拝という。
それは、神よりも、自分の生きる使命よりもその物を大事にし、その生活すべてをその事に捧げてしまう行為をさす。
教師としての愛、物への執着、自分を愛し、人の為に生きない行為これらは、皆罪の結果から来るものであり、それらは、神を愛する事と相反する。
話は変わるが、この間私は、横浜の方で、家もなく厳しい生活をしている人達を支援する会に一日参加させてもらった。
その時夜7時から10時位の間に食事とチラシをくばったのだが、最後帰る時に、私に今日配った、シチューをくださった。

そのシチューは、女性と男性の多くのボランティアの人と教会や他の団体からの支援で出きたもので、その中には、夜寒い中で寝ている人への愛情が込められていた。
一杯だけれども、少し大きめの入れ物、ジャガイモが多く入っていて、お腹にもやさしいシチュー、少ししか食べ物を食べてない人の胃は、縮小してちいさい、そんな
人達への愛情が込められている一杯のシチューに私は、その人々の中に、神様の愛を見ました。
人が言う愛欲と愛とは違う本来の自己である、神様の神性の愛を感じました。
欲望や自我があるから、人は争う・・・。

私は、以前知合いから私が教会の話をした時にこのように言われた事があります。「人を好きになった時、神様を取るのか愛する女性を取るのか」
私は、その時神様が私達にふさわしい人を備えてくださると言ったような覚えがありましたが、その時相手は、ああといった何かあきらめに近いといった感じで
そうですかといったのを覚えています。
私がこのように言うのは、若い頃にあなたの創造主を覚えよと聖書にありますが、青年の頃は、オリンピックへの旅は、一種の青春の酩酊のごときものが
あった。と田中さんがいうごとく、一種の幻でもあります。
この幻は、10年単位で、覚める人もあれば、そうでない人もいるかもしれません。
何にせよ、私達をその欲望の炎や自我の利己心から守るもの、それは、あなた自身が主・イエス様の十字架の愛を知り、聖霊の愛の炎によってしか、この欲望の炎は
蹂躙できません。
聖書では、神は愛であると言います。
でも人が、罪故に自我の強さと執着により、罪により、的がはずれる時もあります。
そんな中、支えてくださる人の愛、神の愛、背後の祈りが私達を支えます。
最後に御言葉を書かせて頂きます。
ガラテヤ6、7~ 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。
人は種を蒔けば、その刈り取りもする事になります。
8 自分の肉のために蒔く物は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために、蒔く者は、御霊から
永遠のいのちを刈り取るのです。

生きるにしても、キリストの為に生きる人は、死ぬのが益に変わります。
死は、恐怖ではあっても、始まりになります。
死後の世界では、涙も恐怖もありません。天使と神と全治全能の神である主・イエス様を信じた
人達が集まる永遠の不変の世の始まりです。
しかし、罪から来る報酬は死ですとあるように、その罪の贖いなしには、救いは成就しません。
主・イエス様の十字架による和解を受入れる事、私は、道であり命であり真理である主・イエス様
を信じる事によって死後の裁きを受けた後の勝利者になれるのです。
主・イエスを信じるならば、私達は誰でも今からでも救われます。
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