トクトル

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トクトルさんの日記

(Web全体に公開)

2013年
11月25日
11:29

罪と罰

今年は、10月になっても大型台風が来て、各地に被害をもたらしている。

それというのも、夏の時の海水温度が高かった為だと言われているが、どう

やら、夏の時の水不足は解消されたようだ。

さて、今日は、主・イエス様に祈り、ドストエフスキイの罪と罰から、テロ

リズムや革命と罪について、ドストエフスキイから、学ぼうとと思う。

この物語を真理的に考察する場合、私は、以前教会の学びの中で、この物語に

ついて、教わった経験があるが、キリスト教では、この物語は、教えづらい物

語であったのを覚えている。

なぜならば、この物語は、主人公のラスコーリニコフが、金貸しの老婆を殺人

してしまい、その後の主人公の罪による心の葛藤を描写した物語であるからだ。

非凡人(天才)は、凡人(一般人)の権利を踏みにじる事が時として、赦される

のか? (ナポレオン主義)

という事と、例えばニュートンが、新たな人類に対しての偉大な発明をする為に、

結果として、凡人の権利を踏みにじり事が赦されるかという、弁証法的な観念

に於いて、一般の性悪説が、性善説になりうるのか?と言う事がテーマとなって

いる物語だ。

また、今回ラスコーリニコフは、ペテルブルグの大学をお金がない為に除籍され、

自分の5階の屋根ぐら部屋で、絶望的な生活を送っていたのだが、金貸しの老女は、

ケチで、お金を貯める事しか考えておらず、最後自分が死ねば、修道院へ寄付する

つもりでいたが、主人公は自分ならば、そのお金を将来人々の為、に生かす力が

ある(現実にラスコーリニコフは、周囲から、ペテルブルグの教授になると思われ

ていた。)

という2つの観点から、老女を殺害してしまう。

この罪と罰を書いたドストエフスキイさんは、20代の頃、ユートピア社会主義のペト

ラシェフスキーのサークルに入っており、反社会派運動をしており、秘密警察に捕まり、

27歳の時に、この物語の主人公のように、実際にシベリア流刑を受けたという現実が

ある。

この上記の考察から罪と罰は、単にフィクションではなく、ドフトエーフスキイさんの思い

が強く反映された物語でもあったのではないかと思われる。

また、主人公の正式な名前は、ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフといいますが、

これらを分析しあわすと、ロマノフの祖国を断ち割る者と言う風に捕らえられる。

この小説は、1866年に書かれた書物であるが、1666年のこの書物が書かれる200年前、当時

ロシア正教が、儀式や儀礼を新たにギリシア正教風に変えようとしたが、ロシア正教を踏襲

してきたもの達が反発し、その人達は、分離派と言われたという事実も、罪と罰が書かれた

動機であった。

なぜ、上述した事を私が書いたのかと言うならば、普通教会では、この物語のラスコーリニコフ

の殺人の動機の部分に焦点を当てて話をするよりも、この部分は、漠然とさせ、罪と罰を語った

り教える風潮があるからだ。

だから、敢えて私は、この物語の主眼となる部分について、主・イエス様に祈り書いておこうと

思う。

この物語を信仰的に理解するのには、いくつか視点を変えて、見る必要がある。

1. 聖書には、新約聖書と旧約聖書全部で66に分かれている。その中で、旧約聖書には、ダビデ王
が出て来る。

このダビデ王は、イスラエルの王として、有名な人物だ。

でも彼は、神の敵であるペリシテ人や神に従わない者達を神の敵として倒している。

上述した、ラスコーリニコフのナポレオン主義と何が違うのかと言うならば、ダビデ王は、勝手な自
分の思惑や理念により行動したのではなく、神の敵になり、残虐行為をした者達と神の為に命を懸けて
戦った

2. 現代社会でも、殺人などの罪を犯した人達は、当然逮捕され場合によっては死刑になる事もある。

聖書でも新約で、こう書いてあります。

ヨハネの手紙第一516 では、死に至らない罪と死に至る罪があると書いてあり、死に至る罪に対して

これについて、神に願うようにとは言いませんと言います。

上述した2つの概念を念頭に置いてからでないと、この物語は、とてもややこしい考えで書かれている。

ので、注意が必要だ。

3. 現代社会での聖書の罪と罰に関しての考え方、

聖書で、主・イエス様は、罪人の為にも祈りなさい。悪人に刃向う事をせず、右の頬をだしたら左の
頬もだしなさいと言われています。

そして、主・イエス様自身も自分を捕らえる人達を攻撃せず、父なる神である主に委ねられました。

そして、旧約聖書で、認められてした決まり事も、新約では認めないような事が多々ありますが、新
約聖書が出来き、イエス様は現代は、旧約のような戦いを肯定はしておりません。

このような観点から見る時、私達は、今回ドストエフスキイがかいた罪と罰を教訓として読む必要が
あります。

さてでは、これからこの物語を紹介していきます。

上記で語ったようにこの物語は、罪と罰がテーマで、ラスコーリニコフが、非凡人が凡人の権利を踏
みにじる事がゆるされるとしたならば、実際に自分がこの事を成した時、自分が、非凡人でありえる

のかと言う、精神思考が、この主人公の偶像になっていました。

彼は、悪人であったのでしようかと言う問いに対しては、NO.と言わざるえません。

なぜならば、親友のラズミーヒンは、彼が、事実を話、シベリアへ流刑になった時に、その罪を軽減
されるように、彼が、大学在籍中に同じ仲間を資金面で助けた事、子供が火事で死にそうになった時

に自分の命に代え助けているという事実を法廷で証言し、彼の罪を軽減させたからだ。

事件を起こす前、ラスコーリニコフは、あわれな馬の夢を見る。

その内容は、7歳位の少年の頃の夢で、父と郊外を散歩し、町はずれの大きな酒場へ出た。

その時、酔っ払いのいる酒場の前に出た主人公達は、荷馬車につけられたやせこけた小さな馬とその
主人ミコールカやその付近の酔っ払い達に遭遇する。

7人の人に荷馬車に乗せ、無理やり走ろうとする馬の主人当然小さな馬が走るはずもないのに、さら
に、主人は馬を叩き、罵り、最後殺してしまう。

この夢は、殺人前の出来事で、一旦ラスコーニコフの考えを改めさせる結果となった。

しかし彼には、青年がもつ研究者としての思考による誘惑と、悪魔の罠に引き寄せられるかのごとく
、彼はセンナヤ広場へ出向く、その時、金貸し老女と一緒に住むリザベェータと、商人夫婦の会話から、

リザベェータが、商人夫婦に招かれていない時間、つまり、老女が一人でいる時間を知ってしまう。

この事から、まるで吸い寄せられるように、殺人に走るのだが、ラスコーリニコフの唯一の誤算それ
は、リザベェータが、家に帰って来てしまい、上述した物語小さなやせ馬のごとき、純粋で弱く正しい

リザベェータまで、殺してしまうと言う事実だ。

彼のナポレオン主義の理論では、非凡人が凡人をシラミと見なし、殺害しても後の革命の為に耐え忍
ぶならば、非凡人(天才)として、赦されるという考えと、聖書的な殺人は、罪であると言う事との

葛藤が始まる。

実際に自分の考えをそのまま確認する為に老女とリザベェータを殺害するラスコーリニコフ、彼は、
自分が非凡人であると思っていたので自分が、苦しむとは考えていなかった。ところが彼は、この

事件があった後も、哀れな酒の身で、九等官の父マルメーラードフ、夫を亡くし三人の子を抱えて、

再婚した、カチェリーナ、マルメラードフ一家の為に遊女となった、ソーニャ達との出会いにより、

ラスコーリニコフは、2つの心を持っている分離した心を持っている事がうかがえる。

そして、一方の観念が、彼を非常に苦しめる。

彼がこの苦しみを解決させる為に選んだ方法は、ちょうど、精神レベルが高く、家族の為に犠牲とな
っている一線を踏み越えた罪を持ちつつ、高潔なソーニャに、自分の罪を告白する事にした。

それには、主人公の汚い考えがあり、自分の殺人とソーニャの罪を同罪と考えたから、共に生きる事
ができると考えたから、ソーニャに告白した。

もし、リザベェータのように罪をソーニャが知らねば、告白し共に生きる事をしなかっただろうと思
う。

彼は、罪を犯していたが、本心がまじめで良心のある人ではありました。

またマルメラードフが、最後の方になると、馬に引かれ死ぬのだが、ラスコーリニコフは、彼の為の
葬儀費をだす。

その時彼は、お金の大半を使ってしまうのだが、このお金は、主人公の母と妹ドゥーニャが、主人公
の為に犠牲となり、ピョートル・ペトローヴィチ・ルージン(苦学の末弁護士になり、さらなる立身

出世を求めるという非常に上昇志向の強い人物ですが、貪欲で、計算高い性格の持ち主)と結婚しよ

うとした資金でした。

 ところでドゥーニャは、主人公に対してそのような犠牲になろうとして結婚しないと書いてあるが
、もとドゥーニャはスヴィドリガイロフという家庭教師をやっていたが、この男は、セクハラなど問

題のある男で、長年連れ添った女を殺してさえしても、ドゥーニャを愛した者だが、この時も兄の為

に母の為犠牲としてやせ馬として働いていた事実があり、この問題からスビィドリーガイロフの妻は、

ルージンを紹介したのではないかと私個人としては思う。

ルージンが結婚したいのは、貧しい女ならば、自分の思い通りに支配できると言う考えがあって、結
婚したがっており、最後は、侮辱的な事を主人公のははプリヘーニャに吐き、この結婚は破断になるが、

ルージンは、この結婚をあきらめず、ラスコリーニコフに罪をなす

りつける為に、ソーニャに100ルーブリこっそりだまして主人公とソーニャを罠にかけ、盗人扱いした
非道な人物だ。

ここまでして、兄のためにルージンとの結婚の資金として得た大事なお金を使ってしまうラスコーリ
ニコフ、それほど、彼が上記で見た夢ミコールカが自分の持ち馬である仔馬を殺す事に対して、憤慨

する夢は、ラスコーリニコフのもう一つの律法義としての精神構造として、大きな役割をはたしていた。

さて、マルメラードフ一家の事に戻りますが、まず父であるマルメラードフが死に、ラスコーリニコ
フが出したお金で葬儀が決定し、その葬儀でカチェリーナは、精神的な罪を犯す、それは、自分の父

が地位の高い者であり、自分がその娘であるという高慢から手伝ってくれた者や地位の低い人を罵倒

した事です。

しかしこの事が原因で、自分を住ませてくれた女宿主の怒りを買い、追い出されてしまう。最後は喀
血し、遊女になっている娘ソーニャの家で死ぬのですが、印象的だったのは、「なるほど、お前はこ

んな暮らしをしているんだね、私達はすっかりお前の生き血を吸ってしまったねえ。この子たちを引

き取っておくれ」

「たくさんだ・・・みんなでやせ馬を乗りつぶしたんだ  もう精も根も尽きた」という箇所を見る
ときに、人の罪は、何も行為によるものだけではなく、この世自体が環境を作る私達人類の罪をもド

ストエーフスキイさんは、描いている。上記の3つの罪ルージンとマルメラードフとそして、このよ

うな環境を作った人々の罪まで描写している。

最後、ソーニャに罪を告白し、主人公は、ソーニャにとあなたがけがした大地にキスしなさい。

といわれ、実際にこの事を行った後、自分の罪を告白する。そして、シベリアで監獄生活の中で、ソ
ーニャは、彼を愛し、病気になろうとも弱々しくなっても、彼を助け最後に、彼は郷愁に喜びを感じる

ようになり、愛を知る物語は、ここで終わっているのだが、この物語の難しい所は、罪の問題です。

では、少し前にもどり、主人公が大地にキスし、つかまった時に彼は、悔い改めたのかと言うならば
、そうではありません。反省したからではなく、その前に、スヴィガイロフが、ソーニャに主人公が

告白しているのを隣りで聞かれていた事、予審判事のポルフィーリィに自分の罪がばれていた事が影

響しており、一方自分の罪を自覚する反面、上述した非凡人か凡人かという問題の方か゛かれのすべ

てであり、ラスコーリニコフは、シベリアで拘留中もなぜ、自分が悪とされたのか、そんな事より、

自分が非凡人であった心の甘さ、心の狭さというか、この事で自分を責め続けます。

その問題の為ならば、どんな労苦さえも彼にとって、心地が良く、牢獄の生活さえ快適であった。

彼にとって、良心による葛藤は、自己の非凡人の意思を強める為の過程でしかあらず、1の罪を犯した
としても何物かをなす偉人は100の善によって、正統化されると言う観念を持ち続けていたと言う大き

な問題があったのです。

しかし、シラミと凡人を言った主人公は、けっして、凡人を愛してなかった訳ではないのです。

この物語から教わる事は、現在、グローバル化してきている現代の世で9.11事件やイラクやイスラエ
ルなどの戦争も上記のラスコーリニコフ的な考えにより、起きており、まるで、現代に対しての人類

の精神過程に於いての問題を書いているような気がします。

貴方の若いころにあなたの創造主をおぼえよと聖書にはあります。

ドストエフスキーさんは、この罪と罰を通してラスコーリニコフが、正義と言う事と不正義という
事について、現代の歴史が、戦いの中で英雄とした人物の行った行為と結果で物事を判断してしまっ

た事、これこそが、最大の罪であり、このような革命的な考えに捕われ誤った道を歩む事自体が、最

大の罰なのだと言いたいのではないかと思います。


最初に書いた1666年のこの書物が書かれる200年前、当時ロシア正教が、儀式や儀礼を新たにギリシア
正教風に変えようとしたが、ロシア正教を踏襲してきたもの達が反発し、その人達は、分離派と言わ

れたという事実があります。

また昔、ある私の知り合いが夢で、ずっと階段を永遠と上り続ける夢を見たといいます、また、いつ
までも青く薄暗いトンネルを歩く等々の夢の話を聞く時に罪を犯している時、人は、同じ負の思想に

捕われます。 たとえば、お金を持つ事は、悪い事ではないのですが

執着心が強く、神よりもお金を便りにしてしまうと、その人は、その思いに捕われ、生きる事に常に
不安を感じ、苦しむ事もあるようです。

もしかすると、彼は、この小説を書き終えてもまだ、自分の思想の完成を終えていないのかもしれま
せん。

この問題の答えそれは、全て信仰にあると思います。

この世は、全治全能の神である主・イエス様により作られました。

だから、その思想に対して、時として、どちらでもよい事は多々ありますが、それを正しめるのは、
この世と人間を創られた神様しか解決策を持っていないのです。

聖書で、イエス様は、ヨハネの福音書10章を見ると、羊の囲いの例え話が出て来る。

ヨハネ10、1 はっきり言っておく、羊の囲いから入るのに、門を通らないで、ほかの

所を乗り越えてくる者は、盗人であり、強盗である。 門から入る者が羊飼いである。  

とあります。

新約聖書、旧約聖書両方とも、神の生きた言葉であり、私達を教え、強制し、示唆する書物

であり、世界の創造主である、主・イエス様が、預言者に神の霊感を通して書かせたものです。

しかし、この神の御言葉は、神様がその時その場所で私達に、平和の君である、神が、不思議な

助言と導きを通して、私達に導きを与えて行く物です。

よって、上述した物語の答え、それは、常に、羊の門である。主・イエス様に、教えを乞う事

が肝要であると思われます。

私は、上述した 3. 現代社会での聖書の罪と罰に関しての考え方、の考えが、現代の世に於いて

の主・イエス様のお考えであると思います。

義と平和は、互いに口づけしている、義による報酬それは、永遠の命であり、義とは、何かと言う

ならば、主・イエス様の十字架と復活を信じ、罪を改め、神と共に生きると言うことに他なりません。

主・イエス様の十字架は、全ての罪のメビウスの輪から、解決を示唆し、人々を救いへと天へと

導きます。
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