トクトル

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トクトルさんの日記

(Web全体に公開)

2013年
10月04日
17:32

サンフランシスコ・デ・ザビエル

今年は、台風が上陸したのが以上に多い年だった。台風が何号だったか、

忘れたが、関西では、洪水の被害が凄く、一カ月に降る降水量と同じくらい

降り、各地で、竜巻に近い、突風が吹き、多くの被害をもたらした。

その被害者の人の為に祈ります。

さて今日は、以前私が、主・イエス様に祈り、サンフランシスコ

ザビエルのインドから、マラッカやソコトラ島など、諸所の伝道

の事について書きましたが、今回は、日本へザビエルがどのように

来て、伝道していったのかについて、書こうと思います。

当時ザビエルは、ポルトガルのジョアン3世の力添えや、イエズズ

会の支援を通して、インドや諸所の島で伝道する事ができました。

では、日本へどうやって支援を受けたのかと言うと、印度航路の

発見者バスコ・ダ・ガマの4人の息子の中の3人の息子が関わっている。


印度総督のエスタバオ・ダ・ガマ、最優秀船として有名であった船の船長

のドアルテ・ダ・ガマ、そして後の2人が、特にサビエルの日本航行に大きな

影響を与えた人物であった。

1人は、マラッカの長官のペドロ・ダ・シルバ・ダ・ガマ、マラッカの港湾と

艦隊の全権を握る司令官のアルバロ・デ・アタイデ・ダ・ガマであった

ドアルテ・ダ・ガマは、日本いるザビエルを非常に援助し、豊後の大友候に

ザビエルを紹介し、ペドロ・ダ・シルバ・ダ・ガマは、船の手配や、日本への贈り物

をしてくれた。そして、アルバロ・デ・アタイデ・ダ・ガマは、中国(シナ)の渡航

を強引に許可してくれた。

当時日本への航行は、4隻いったら、2隻日本へ着けば、成功だと言われていたので

すが、今の船とは違い、季節風によって航行していたので、場合によっては、シナの

島による必要もあったし、ザビエルは、日本だけではなく、シナへも行きたがって

いたので、上述した3人のバスコ・ダ・ガマの息子達の尽力が大きかった。

ところで、マラッカ→広東→チンチェオ→鹿児島→京都→鹿児島→山口

→府内(大分)そして下関海峡までが、日本でのサビエルの伝道の経緯

です。
 
それでは、航行の内容について話を進めます。

ザビエルは、シルバからの紹介で、アバンという人の船で航行する事になるのだが、

初めからザビエルにとって、インド航行以上の試練がありました。

アバンは、あだ名が海賊と言われていた位ですから、余り良い人ではなかったのでは

ないかと思われるし、シナ人の商人ジャンクは、不信者で、偶像を拝む人達で、日本

への航行を、くじで偶像に聞きながら航海する始末で、ザビエルにとってとても

つらい宣教の旅になった。 何よりも、季節風が日本に吹く時に、日本へいかなければ

、シナの島で冬越しをしてから行かなければならないのにもかかわらず、偶像に聞き

くじで占うと、日本へ行けても、マラッカへ帰れないと出てしまい、船は、シナに行く

事になってしまう。

しかし、神の不思議な御手により、日本への航行は実現していく。

緩慢な蛇足で航行する船、あいかわらず、悪魔である偶像のくじに頼る船長

そんな中、聖マリア・マグダレナの祝日の前夜、空も海も荒れて、波も高くなった。

その時、なぜか、船のポンプが開いていて、そこに、マヌエルが入ってしまう。

もう死んだかと思っていると、頭部を打ち重症であったのにも、関わらず、神様の

恵みであったのでしょうが、助かります。

彼の救助に懸命であった時、海はますます荒れ、そのせいで、甲板にいた船長の娘

が海へ投げだされて、死んでしまった。

ますます、おびえた船長は、当然、シナへいってから日本へ行こうとするが、ザビエル

達が反対し、長官にこの事話すと言われ、彼らは、チンチェオに行く事となった。

娘の死もあり、精神的に怯えに怯えた船長、精神的にも、怯えきっていたので、

日本へ直接行かずにさらにチンチェオへ向かうがこの事が、彼らを日本へ行くきっかけ

となりました。

神はチンチェオに海賊を置きそのおかげで、船はチンチェオを離れなければ

ならないが、船は季節風で走るので、戻れず、日本へやむなく行く事になった。

そして、神様の助けもあり上述したように、鹿児島へ着く。

日本へ着くと、聖信パウロ(日本人ヤジロウ)は、薩摩の君主 島津貴久と会い

彼をキリスト者とする事に成功する。

その後、ザビエルは、東上し、国王に宣教の許可とシナへ航行について、免許を

もらいにいき、何よりも、高野、根来、比叡、近江等々の学校の事を調べている。

各学校には、3500人位の生徒がおり、特に坂東は学生の数ははるかに多かったという

京都で国王に会うも贈り物がなく失敗、そして山口へ行く、大内 義隆に再謁見

し、インドのゴア司教の親書や、望遠鏡やメガネなど様々な珍物を献上し、見事

信仰の自由を獲得する。その後豊後(大分)で、上述したドアルテ・ダ・ガマが豊後の大友

宗麟にザビエルを紹介してくれたおかげもあり、大分での宣教はしやすかったのでは

ないかと思われる。

ザビエルは、日本の人を自分の国の人のように愛していたばかりではなく、日本の宣教

にかなり期待していたのではないかと感じた。

ザビエルは、室町末期の時代に日本にきました。当時は、平民も武士も貧しい暮らしの

人が多く、僧は尊敬されていた。 当時の文献を見ると、日本人は、文化人で、本を

読めない人がいなかったといいます。

それは、一重に僧たちの働きあっての事だが、この時代の僧は腐敗していたのだそう

で、ザビエルも迫害にあっている。また日本人は、好奇心も強くまじめで、探究心

がある種族なので、導く苦労もあった。

例えば、主・イエス様は、なぜ今まで日本へ来なかったのか? 先祖を尊敬し大事に

する日本の種族は、祖先の救いがなかった事に憂い悲しんだそうですが、このように、

日本人はよく聞き、またその教えをする人の様子を見つつ、慎重に物事を判断する

真のキリスト者の生まれる地として、期待が大きかったのだと思う。

日本を去ったザビエルは、インドから、シナ(中国)へ宣教へ行き、最後を遂げた。

なぜ、中国へいったのかと言うと日本の文化に大きな影響与えているシナを宣教

する事が日本の宣教と関係があると思ったからだ。

私が思うのは、当時日本に来れるだけでも確率は50%に過ぎず、また日本は

この当時、足利家や地方の豪族たちによっておこった応仁の乱がおきている最中

でもあり、とても危険でありました。

日本人は周知のとおり、刀を持ち、武器を重んじる国でしたから、日本へ来て、

命を守られただけでも、奇跡であったと言えるのではないでしょうか?

もし、このサンフランシスコ・デ・ザビエルの命掛けの働きと私達日本人への愛

がなければ、キリスト教も、教会も、日本で、育たなかった事を覚える時、私達

は彼に感謝します。

私は、この彼の航海の話を読む時、使徒行伝を思い出します。

使徒27~28で彼らの船が難破します。

アドリア海を漂流し、その時使徒27:31の言葉が印象的でした。

船が暗礁に乗り上げる事を恐れる船員は、錨をおろすふりをして、逃げ出そう

とする。その時パウロは、はっきりと確信に満ちた言葉で一言こういうのです。

「あの人達が船にとどまっていなければ、あなた方は、たすからない」

また、使徒27:34 だからどうぞ何か食べてください、生き延びる為に必要だから

です。 

あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなる事はありません。

そして、パウロからの主・イエス様の御命令を聞いた船員はたすかりました。

聖書で神は、旧約聖書で、当時行いの悪い人類を滅ぼそうとした時、行いの良い

ノアに箱舟をつくらせて、生きさせました。

一度この世は、水で滅びましたが、船は健在でした。

今の世では、教会が私達の箱舟であります。 

新約聖書 第一ペテロ3:19~20 そして、霊に於いてキリストは、

捕らわれていた霊達のところへ行って宣教されました。

この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作らていた間、神が忍耐して

待っておられたのに従わなかった者です。

この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち8人だけが、水の中をとおって救われました。

この水で前もって表されたバプテスマ(洗礼)は、今やイエスキリストの復活によって

あなたがたをも救うのです。

上記の記事からも分かるように、キリストは、以前悪を行い従わなかった霊達をも、

放蕩息子が神(父親)に自分の罪を悔い、そしてキリストの十字架を受入れて、洗礼を

受け、神に立ち帰る事を望んでおられます。

教会は、キリストの体であり、船であります。

この船に乗っている者は上述したよう、あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなる事はありません。

しかし、もし教会が、主・イエスの教えに聞き従わず罪を犯すならば、その教会は教え戒めを聞き守る

会ではないので、もはやその舟は、沈む事になってしまいます。

だから私達は、横と縦との関係を重視し、神の御声に聞き従う必要があります。

ザビエルのように、日本の大名や僧に謙遜で、常に正しく確信をもってキリストを信じたように、

福音を伸べ伝えるならば、私達は、教会は、律法によって平和と義を獲得し、終わりの時に天国へはいれます。
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