トクトル

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トクトルさんの日記

(Web全体に公開)

2013年
07月19日
15:06

サンフンシスコ・ザビエル

前の週は、猛暑だった。

気温は、平均35度くらいは、あったであろうか。

私の家の外の気温は、とても暑い時で、39度近く

もあった、今年は、水不足と、電力不足心配ですが、

関西の方では、雨が降ったようだ。

さて、今日は、主・イエス様に、祈りサンフランシスコ・

ザビエルの書簡集から、信仰について、導きを頂いた。

1506年頃4月7日生まれのザビエルは、現在のスペインのナバラ州、

パンプローナに近いザビエル城で地方貴族の家に育った。彼は5人

姉弟(兄2人、姉2人)の末っ子で、父はドン・フアン・デ・ヤス、

母はドーニャ・マリア・デ・アスピルクエタという名前であった。

父はナバラ王フアン3世(フランス貴族アルブレ家の出である)の信

頼厚い家臣として宰相を務めた。 ナバラ王国は小国ながらも独立を

保ってきたが、フランスとスペイン(カスティーリャ=アラゴン)の

紛争地になり、1515年についにスペインに併合される。父フアンはこ

の激動の中で世を去った。

1525年19歳の頃、パリの名門大学のソルボンヌ大学に入る。彼は、

上述したように、貴族の出で、父は、亡くなり、母も高貴な所の出

身だったので、贅沢な暮らしが好きで、この頃は、野心も人一倍あった。

しかも、カルギンなどの影響により、異端に走る者も多くいた中で、

ザビエルは、神に手厚く守られていく、先ず、寮生活では、イグナチオ

やペテロ・ファーベル達と一緒になる。

1529年、ザビエルの母が死亡。その4年後、ガンディアの女子修道

院長だった姉も亡くなる。そんな中で、哲学コースをとっていた、

ザビエルが、まっすぐ信仰の道に入れたのは、イグナチオの影響が

大きかった、イグナチオは、マタイ16の人、例え、全世界をあた

えられようともこの箇所を3年間反復して、サビエルに話す。ザビエル

は、イグナチオの交遊を逃避、しかし、哲学の講師となっていたザビエル

サビエルは未だに貴族の生活態度を改めなかったのだが、金が足りなくなっ

た時、貸してあげたり、して、心にとっかくがなくなっていった。ちょうど、

寮には、イグナチオ、ファーベル、ザビエルの3人が生活してたが、7カ月

ばかり、ファーベルが、故郷に帰る、そしてファーベルが戻って

来た時には、ザビエルは、別人のようになり、イグナチオに謙遜に従うようになった。

サビエルの転換を徹底的にならしめた出来事は、イグナチオの指導のもとに行った、

40日の黙想あった。

改心した、ザビエルは、後にモンマルトルの聖堂において神に生涯を捧げると

いう誓いを立てた。これが「モンマルトルの誓い」です。

ザビエルは、ポルトガルの王に、派遣され、インド、中国、黄金の国ジパング

と呼ばれた、日本にも、伝道に来る、今回は、インドでの、伝道、リヴァイバル

(信じた人が大規模に起こる事)迄書こうと思う。

さて、ポルトガルの王、ジョアン3世の命により、インドのゴアへインドに2名の神父が、

派遣される予定でした。一人が、ロドリゲス、もう一人が、ボバディラ、ところが、

ボバディラが、病気になり、ザビエルが、派遣される。

当時、インド渡航は、白人の力の象徴であり、コロンブスが、おさないイエスを肩の上に載せ未開の

所へ運んでいく書が書いてあった位で、ポルトガル人は、胡椒と救霊に行く人がほとんどでした。

インドの総督は、後に、年貢を重くしたり、不法を行う事が多々あり、ザビエル達の宣教の邪魔

になる事もあったのだが、出航前宮廷で、ポルトガルの王と会談、王はザビエルの謙遜な人々への奉

仕に見入られ、王の絶対的な信頼を神の恵みで獲得した、ザビエルは、学院の為、また、悪い総督

の罷免などを勇敢に陛下に進言し、活躍する。

リスボア→モザンビーク→メリンデ市→ソコトラ島→→ゴア→ツチコリン→コモリン岬

と伝道旅行に行くが、当時の文献を見ると、インド航行は、実に生きながらの地獄であった。 

アフリカの炎熱の上に狭い船の中には、人がぎっしり、一杯の水の為にさえ、短刀で猛獣のご

とく争ったという。指揮者や上級者との食事を謝絶し、自分に与えられた、部屋は、病人に提供、

食事は、パンと水だけしか取らなかったとある。 看護、罪の告白を聞き、要理の説明ザビエル

は、祈りを通して、豊かに恵まれ、信心の自分の弱さをじかく、しかし、ますます、神に対

する信頼が深くなったという。しかしザビエルは、病気にもなる。

荒波による酔いに耐え、40日、甚だしい苦痛に悩んだが、モザンビーク島で、回復した。

その時にザビエルの信仰のあり方に私は、感動しました。

ザビエルは、信仰とはこのような物だと書いてあります。

 このような困難に遭う度に、却って慰藉を感じるものと、私は、思っている。

それに反して、これらの困難から逃げ出す度に、或いは、それらの外側に在る時、その人は死んでい

る。

キリストを知っておりながら、自己の意思を捨てず、己の愛着心に引きずられて、キリストを捨てた

人の生活は、いかに、大いなる死であろうか。 それに引き換え、自己の意思に反対し、自己の事を

もとめず、キリストの事を求めながら、日々自己に死する生活は、如何に平安に満ちたものであろう

か。

また、灼熱の船の苦しみさえ、キリストに於いて、清涼剤であると言い切れる信仰と徹底した、

自己犠牲の奉仕、徹底した、伝道奉仕、病人の介護の姿は、多くのインド、マラッカ付近の島々

の人々をキリストへと立ち返らせていく。

書簡の8巻は、有名で、コインブラ、バレンシア、パリー、ルヴェイン、ケルン、サラマンカ、

バタビア7つある、イエズズ会の学院、に大きな喜びをもたらし、派遣した、国王ジョアン3世は、

反復して、この書簡を読み、長い間手元に置いてはなさなかった。

ペトロ・ファーベルは、この書簡8巻を、イエズズ会に対するもっとも有力な弁護者だと言った

程でした。

内容としては、バラモン教対する護教論のやり方、神からのはかり知れない、聖寵、インドの

様子などですが、大リヴァイヴァル(キリストへ導かれる方達)が大多数いた。

コモリン岬、2万、トラヴァンゴルで1万、後に5万近くの人々が、インドで洗礼を受けた。

勢いにのり、ゴアで、聖信学院の建設に従事、ザビエルは、祈り、使徒信条、を教えるさなか

、洗礼を受けさせるだけて゛も一苦労でした

よく、デパートで、人気商品のために行列のできるごとく、教えを夜でも、聞きたがり、日々

キリスト教は、ひろがり、子供達の手を借りるほどに、忙しく、パリの大学や国王に、信徒

をインドへ来させてほしいと、猛烈にアプローチした。

私は、ザビエル達とを通し、知った事は、イエズズ会の人たちは、自分の為に生きることよりも、

他国のインドの人々の為に昼夜、働きつづけ、そして、信仰の道の救いの道を全く疑わずに

邁進できたのには、主・イエス様の十字架と、その後死後の世界で永遠の命に対する確信があれば

こそできた奉仕であったと思います。

コヘレト11 4 風向きを気にすれば、種をまけない、雲行きを気にすれば、刈り入れはできない、

とあります。しかし、ヨハネの福音書4、35 で、主・イエス様は、こう語ります。

あなたがたは、「刈り入れまで4カ月もある」と言っているではないか。

私は言っておく、目を上げて見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。 すでに、刈り入れる

人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。 こうして、種を蒔く人も刈る人も共に喜ぶので

ある。とあります。

また、ヨハネの福音書4、38で、あなたがたは、自分で労苦しなかった物を刈り入れる為に私は、

あなた方を遣わした。他の人々が労苦し、あなた方は、その労苦の実にあずかっている。

上記のザビエルの奉仕の前に主・イエス様が全治全能の神である、イエス様の労苦により、私達の罪

は赦され、主・イエス様の十字架により、私達は、清められます。

モンマルトルでの誓いから世界に派遣された中の数名の種が言葉として、福音の種を蒔いた結果

何万人という人々が、救われた、今日は、主・イエス様に祈り、信じるならば、どのような、未来

が訪れるのかと言う事について、書かせていただきました。

主・イエスの十字架を信じる人は救われます。
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