たけ

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たけさんの日記

(Web全体に公開)

2013年
06月24日
06:20

教会・霊の建物

 教会は、原語「エクレシア・集会」の意味において、目に見える信者たちの集会であり、その秩序、さまざまな目に見える小さな原因と重大な結果、対策など、会議や取り決めの必要も起こり得るものです。具体的で基本的な教えや実例も新約聖書に記されています。

 教会について、Ⅰコリント、エペソ書で別の原語「ソーマ、からだ」で記されているところがあります。この意味は、教会の本質について真理が示されていますので、全体のいのちにかかわるはっきりした真実です。世界中のどのキリスト信者とも共有できることに違いありません。

 人の建てた教会を見分けるためにも役立つに違いありません。

 建物にたとえられた教えが多いのですが、人の外見と見えない性質のようであり、真実に神から生まれた人々の共同体の外見と本質であると認識しています。

 キリストを信じる方々に、歴史上も今も、キリストのソーマ(からだ)に一つにされている真実が確認できますように。

コメント

2013年
06月26日
00:35

1: kiwi

「改革派教会では、キリストの体なる霊的な見えない教会と、地上の可視的、制度的な見える教会があるとする。」

そのことについては、同意します。

「選ばれた者は信仰を告白して地上の教会に属する。」

それも認めます。

「ただし、地上の制度的な教会のうち、本物の教会を教会のしるしで識別する。また、地上の見える教会に属する者の中に、永遠の見えない教会に属さない者がいると考える。」

その考えも認めます。
ただし、
「本物の教会を教会のしるしで識別すること」や、
「地上の見える教会に属する者の中に、
永遠の見えない教会に属さない者を見わけること」
が人にできるのか疑問です。

たけさん、人にできると思いますか?

2013年
06月28日
12:52

2: たけ

>>1 kiwiさん
 ペテロに知らされたキリストの教会の特徴は死人たちの住まいの門に勝っていることで見分けられています。

 生きている死人たちを見分けることのできる人たち、七つの教会の諸問題を解決している人たちは、キリストの教会を見分けていることでしょう。あくまでも、理論ではなく、現実です。

 ですから、キリストについて、よく知っている必要があります。

 ヨハネの福音書の初めの光は、キリストのいのち(ゾーエ―)です。この光がキリストの教会に輝いているものと信じます。

2013年
06月28日
20:51

3: kiwi

>>2 たけさん

応答ありがとうございます。
しかしながら、書かれていることを
十分理解することができませんでした。

これは私の考えですが、

「本物の教会を教会のしるしで識別すること」や、
「地上の見える教会に属する者の中に、
永遠の見えない教会に属さない者を見わけること」は、
人間にはできないと思います。
それは、神に委ねるべきことだと思います。

2013年
06月28日
21:29

4: kiwi

私は、ある疑問を持っています。

http://cand.jp/?m=pc&a=page_fh_diary&target_c_dia...

2013年
07月05日
11:06

5: たけ

>>3 kiwiさん
ペテロがキリストを父から啓示されたとおりに信じて承認したことは、人にはできないことだったのでしょうか。

ペテロが行なわなかったのですか。

2013年
07月06日
17:27

6: kiwi

>>5 たけさん

使徒 9:40
ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、「タビタ。起きなさい」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。

ペテロも確かに「人」でした。
しかし、ペテロやパウロに与えられたような特別な力は、
現代に生きている普通の人間には与えられていないと思います。

少し、論点がずれているのではないかと思います。

私がコメント3に書いたことは、言い換えると次のようなことです。

現代の人間が、ある教会員に向かって、
「あなたは見える教会には属しているが、
見えない教会には属していません。」
ということができるでしょうか。

私はできないと思います。

2013年
07月08日
11:04

7: たけ

>>6 kiwiさん
 確かに、御霊の賜物は、だれにも同じようには与えられていないでしょう。それでも、真理の御霊は、真理を悟らせます。十二弟子が、死んだ人をよみがえらせたことは、いまも死んでいる人がよみがえることを知らせています。死後の話ではなく、生きていて死んでいる人のことです。

 生きていても死んでいる人の問題は、黙示録の教会の中のいくつかに、ありました。この生死のわからない人がいたようなので、金の燭台が取り除かれそうになっていたのではないでしょうか。

 理論の話は、理論の中でどのような解決もあり得ることでしょう。しかし、現実の問題があって、みことばにかかわることであれば、みことばの真実が輝いているだけのことです。

2013年
07月08日
20:31

8: kiwi

>>7 たけさん
「生きていて死んでいる人」とは、
「肉体的に生きているが、霊的には死んでいる人」のこと
だと思います。
しかし、ペテロは、神に与えられた力によって、
「肉体的に死んだ人を肉体的に生かした」と書かれています。
私は比喩的に解釈するのではなく、そのまま信じています。

私はこれまでの人生で、そのような現実を目撃したことは、
ありません。今後も無いでしょう。

しかし、
神は肉体的に死んだ人を肉体的に生かすことがおできになります。
そのことについて、私は何ら疑問を持っていません。

2013年
07月09日
15:36

9: たけ

>>8 kiwiさん
 生と死について、さまざまな用語の使用例があり、特定の聖句ではその意味が明らかになっていても、他の個所でその語が同じ意味であるとは限りません。文字に乗っかると、単なる理論へと離れることでしょう。

2013年
07月09日
21:26

10: kiwi

>>9 たけさん

隠されていることは、私たちの神、主のものである。
しかし、現わされたことは、永遠に、
私たちと私たちの子孫のものであり、
私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。
(申命記 29:29)

聖書の中には、
意味が明らかにされていないことが多く書かれていますが、
それは隠されていることで、私たちの神、主のものである
からではないでしょうか。
しかし、
特定の聖句でその意味が明らかにされているのであれば、
私はその通りに信じます。
他の箇所で別の意味があったとしてもです。

2013年
07月10日
12:16

11: たけ

>>10 kiwiさん
 この日記でキリストの教会について、取り上げたことは、ペテロが信じた「キリスト」と、教会が「いのち」の中に移されていること、言いかえれば、教会員が生きてはいても死んでいると言われる罪人でありましたが、キリストととも死んで、いのちを受けて、ハデスの門に勝っていることです。

 黙示録の中の教会の中にある、生きていると言うが実は死んでいるというような人がいるなら、教会の大切な役割が失われているという意味のことです。

2013年
07月10日
16:54

12: kiwi

>>11 たけさん

おっしゃている意味はわかります。異論ありません。
神がいつも共にいて、信徒を導いて下さいますように。

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