トクトル

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トクトルさんの日記

(Web全体に公開)

2013年
05月14日
20:35

吾輩は猫であるからの示唆

 今日は、東京で28℃もあった。
 まだ、5月ではあるが、この位暑いとそろそろ
カエルや夏の風物詩であるセミも出てきそうだ。
しかし、明日は、平年並みに戻るらしい。
 さて、今日は、主・イエス様に祈り、夏目漱石さんが
書いた、吾輩は猫であるという物語から、主・イエス様に祈り
教えられた事について、書こうと思う。
 この物語は、あだ名が苦沙弥先生という先生が飼っている猫が
主人公で、私は、読む前は、コメディーに書かれているのかなと
思っていましたが、読み終えると意外と、真理的な事について
書かれていました。
 この物語の時代背景ですが、猫が、ネズミを捕ろうとして、
失敗する時のシーンで、日露戦争の時、東郷大将が、ロシアのバルチック艦隊を
壊滅させ、勝利した時の事を、比喩し猫は、東郷将軍の艦隊、ネズミをロシアバルチック
艦隊に例えて、ネズミとの滑稽なシーンを書いている事からして、大体1900年くらいの
頃の話だと思われる。
 当時は、戦争で勝利した日本は、西洋の文明も取り入れ、日本の文化の中に西洋の帽子やら
バイオリンやら、服装にしても、袴やチョンマゲではなく、実業家などは金箔の付いたタバコやフロックコート
などを愛用している。
そして実業家達の人間関係は、地位とかお金、によっての狭苦しい人間関係があった。
 
 この物語は、大筋は、その当時のお金持ちや実業家と、主人公の家の先生との、お互いの立場の違いに
よる争い、そして、欲ある人にも多々色んな人がいて、猫でも、人でも、それぞれの立場があり、
そんな中に於いて、夏目さんは、人と人との関係とは何なのか? 人はどのように生きるべきなのかと言う
事について、語る事よりも、この物語を通して、人生とは、人とは、このような者ですと言いたいのだと
感じた。
 夫婦との関係、金持ちのプライドと先生としての教師としての高尚な意味でのプライドと確執それにより
金持ちの金田家からの嫌がらせを受けた時、登場人物の中に先生に対して示唆する者がいて、一人で解決する
のではなく、私達は見聞を広め事の次第に冷静に洞察的に対処する必要性を伸べている。
 解決には、人との関係を物理的に、心の中を見る必要がある事を教えられた。

さて、猫については、まず、車屋の黒や、近所の弦楽器のお師匠のメスの三毛子との猫関係を描く。
 黒は、ガキ大将のような強い存在で、図体もでかく、ネズミもよく捕る。黒はしかし、知恵によって
話すのでは、なくすべて活動的だ。
 主人公の猫は、知的だが、力はない、でも知恵により黒と接する黒がネズミ30匹とった事で自慢する
と誉めてあげ、また正月の時などは、黒が怒りやすいのを知っているので、黒が喜ぶような言葉を使う、
黒が、黒の車屋の家の鮭を捕った時などは、「君あいかわらずやっているな」と感投詞をなげる。
一方、三毛子には、猫(主人公)は、名前がないのであるが、三毛子には尊敬されている。
しかし、三毛子の家の人達は高貴な方達であるのですが、主人公の猫と飼い主の先生をみずぼらしい、
存在としてみていて、でも猫は、自分を知的で、少し有名になった位に心得ている。
猫達を人としてとらえるならば、上記で書いたように、夏目は、人との接し方、また、自分と人との見方
差異が、争いの元であると、この物語を通し語っていて、すべての人間関係もそうであるので、途中の部分
は、割愛する。 
 最後の方になると夏目は、猫よりも、先生の元教え子の理学士で博士にもなれそうな程の実力ある、寒月
、そして、良く先生の家にくる物知りでおちょうし者の迷亭、哲学者風の独仙、実業家の多々良三平、
や鈴木、金田などの人間関係の方に力を入れて書いている。
 実業家達の心のあり方や葛藤、また先生と世間の実業家達との戦いを描き、最後に、色々な例えを通し
この世は、碁盤の目の中の碁のように、汲々としているのだと言う。
 それに対して、孟子の救放心、、沢庵禅師の不動智神妙録、中峯和尚の具不退転などを用い、心のあり方について書く
 欲望や羞恥心などは、心が猫のように動くならば、とらわれず、また具不退転どのような事があろうと、泰然とした
心を持ち、人は心の視点の向け方次第で、強くもなり、弱くもなるのであるから、心を修養しなさいと言う内容の事を
書いている。
 最後、2年生きた猫主人公は、カメの中に落ち、最後を遂げる。
この時、猫は、冷静であった。
 何が冷静であったのかというと、自分の短い前足では、もし水の上にのってからカメの淵に手を伸ばしせたとしても
とどかないと理解していた所だ。
日月を切り落とし、天地を粉せいして不可思議の太平にはいる。吾輩は死ぬ。そして太平は死ななければ、得られぬと
ありますが、筆者は前のシーンで金田のじいさんは欲で死んでいるのだと言っています。
 聖書では、罪から来る報酬は死であるといいます。
そしてこの世については、エゼキエル11で肉と鍋の例えがあります。肉は民、鍋は町この意味は、鍋の中は安全で
あると言う事なのですが、当時の民の行いが悪いので啓示で神様は、この町をどのように堅固な城のような町にしよう
とも、無駄であると主である神はいいます。
 どんなに、外観が立派な服や現実の科学の勝利を目にしても、民の心が悪に傾くならば、この世を鍋に例えるならば、
この世の城は今の経済は、主・イエスキリストである全能の神が創造なされたので、心と心が通わなければ、永くこの
世も繁栄しないと言う事です。
私達の救い主である、主・イエス様は、十字架に掛り、全世界の救いを達成なされました。
 いのちであり道であり真理であるキリストを通る以外に天国の道に至れません。
 主・イエスの十字架を信じる人は確かに、太平の世に入れられ、ありがたい最後を迎える事ができます。
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