たけ

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たけさんの日記

(Web全体に公開)

2013年
05月07日
14:33

家族か住まいか

 友人が調べたいというので、使徒16:31の「あなたとあなたの家は救われます。」の「家・オイコス」の意味を調べました。

 「オイコス・家」は、主が「わたしの名のために家、あるいは、兄弟たち、姉妹たち、父、母、子どもたち、畑を放棄した人は」(マタイ19:29)と言われているところの「家」であるので、家族の意味とは別の意味があるようです。

 救われるている人には、建物ではない放棄された自分自身の住まいと新しく与えられている住まいがあるようです。

 ちなみに、羊の「囲い」の語にも注意しましたら、「囲い」の訳は、ヨハネ10章に2度ありますけど、宮殿や庭の意味のあることがわかりました。私たちがキリストの入口から入ることは、宮殿に迎えられ美しい礼服を与えられていることにちがいありません。

コメント

2013年
05月07日
22:52

1: kiwi

「家」という言葉から私は
次の2つの箇所を思い起こしました。

1.私と私の家とは、主に仕える。(ヨシュア記 24:14-15)

2.あなたもあなたの家族も救われます」と言った。
  そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。
                             (使徒の働き 16章)

ヨシュア記「私の家」、使徒の働き「その家の者」
の「家」とは、どのような意味だろうか。

それは、肉親のことではなく、家屋のことでもなく、
私の家に属しているものを意味しているのではないかと思いました。

2013年
05月07日
23:26

2: kiwi

「主イエスを信じなさい。
そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」

パウロのこの言葉について、私は長い間、こう読んでいました。

「私が主イエスを信じるなら、
私の家族(が、たとえ、主イエスを信じていなくても)も救われる」

しかし、本当は次のような意味になると思います。

「あなたが主イエスを信じるならあなたは救われる。
そして、あなたの家族も、主イエスを信じるなら救われる。」

「パウロは、彼とその家の者全部に主のことばを語り、
彼とその家の者全部がバプテスマを受け、
全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。」

とあります。

まだ、主イエスを知らない人々が
主イエスを信じるようになるようにと祈ります。

2013年
05月08日
23:38

3: kiwi

今日、あらためて読んだコリント人への手紙の中で、
パウロが次のようなことを書いています。
(7:12-16)

信者でない夫は妻によって聖められており、
また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。
そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。
ところが、現に聖いのです。

妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。
夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。

「聖い」「聖められる」「汚れている」「救う」
という言葉が何を意味しているのか、私にはわかりません。

たけさん、わかりますか?

2013年
05月09日
09:41

4: tiroru

2・のkiwiさんの解釈

「あなたが主イエスを信じるならあなたは救われる。
そして、あなたの家族も、主イエスを信じるなら救われる。」

上記にアーメンです。

『心に信じて義と認められ、口で告白して救われます。』

その後のバブてスマは、救いとどう関連付けるのでしょう。

2013年
05月09日
13:08

5: たけ

>>3 kiwiさん
 知らされている結婚や離婚についての人々のありさまから想像して、全体的な傾向が、聖なる夫婦となることよりも、情欲にまかせる人たちが圧倒的に多いのであれば、自ら、聖なる夫婦であることを確認し、それを保持する生き方は、みずからきよくあろうとし、家族をそのきよい状態に保つのですから、きよい結婚に基づく家族であるという意味において、きよくされていると理解いたします。

 救いについて言及されているのは、争いが生じて別れたような場合のための助言であって、あくまでも、神に導かれて生きるという生き方を貫いて、神の教えの中できよさを保つことが教えられているように思います。

2013年
05月09日
13:32

6: たけ

>>4 tiroruさん
 オイコスの家がたましいの家であるなら、たましいの住むからだとして理解できます。
 そして、キリストに聞き従って、古いからだである家、兄弟、姉妹、父、母を失い、救われたからだとされるなら、信じていないときのからだが救われて、新しいからだになり、キリストにあって、みこころを行なう新しい兄弟、姉妹、父、母に出会うこともあるでしょうし、みこころであるなら、肉の家族たちにも、輝く行ないで有益なことを行なえると思います。

 今、自分のうちにある「家」について考えています。その「家」がみことばの土台に自分が建てられているのかどうかを最もよく知らせるのではないだろうかと考えているのです。

 古いものが滅びて新しく生まれるバプテスマは、水のバプテスマでも霊によるバプテスマでも、同じキリストにつくものであると思います。

 あなたのコメントに感謝します。

2013年
05月10日
00:00

7: kiwi

>>5 たけさん
回答をくださりありがとうございます。

「聖い」「聖められる」「汚れている」という言葉について
私は、今日、次のように理解しました。

「人の聖」は「聖化・聖とする過程」の結果生じた状態
(ヘブル12:14)であるが、
「神の聖」は、本質的なもので「ハギアスモス」ではなく、
もう一つの同系語「ハギオテース」(ヘブル12:10)によって表され、区別されている。

被造物(人)は、どのように聖とされても「神」になることはない。

人が罪へ傾く(汚れている)性質は、
アダム以来の人類の罪への傾き易さ「生来の罪の腐敗性」と、
その個人の過去の生き方、家系といった家族的な過去にも関わる
「取得された罪の腐敗性」とがある。

漸進的聖化の過程は、「取得された罪の腐敗性(汚れ)」からの
「きよめ」であり、キリスト信者が、イエス・キリストの身の丈までに
成長するまで、信仰に応じて継続的になされる聖霊による業である
(コリント第二の手紙3:18)。

「聖化」は生涯的な過程であるが、
その過程は地上では終わることがなく、肉体の死をもって完成される。

2013年
05月10日
23:02

8: たけ

>>7 kiwiさん
 くわしい学びをされているようですね。

 最も良く使われている類語、ハギオスは、神にも霊にも人にも口づけにも都にも用いられています。それぞれの個所で、異なる意味を知らせていることでしょう。

 共通点があるとすれば、分離されていることでしょうか。ことばの比較の学びは、それぞれの語の用いられている個所によって微妙に異なるので、私はほとんどできていません。

 ペテロは、コルネリオに会う前に、彼がきよくされた人物であることを知らされていました。神のことばをのこらず聞こうとしている態度がきよくされている人の特性であるのかとも思います。

 というのは、黙示録22:11の聖徒や正しい人が汚れた人や不正な人と比べられていて、それぞれ、不正から不正へ、聖から聖への行ないを続けているので、汚れから聖なる行ないに進むためには、生きている間に、悔い改めとキリストとともに、汚れに死に、キリストとともに聖に生まれることがなければならないと理解しているからです。

 キリストの知恵は、あらゆる時に、義の行ないを生み出すものですから、行きづまっても、神に願い求めて、行ないから行ないに導かれ、喜びをまし加えられます。

2013年
05月13日
01:05

9: kiwi

>>8 たけさん

コルネリオのことで、あらためて思いました。
 
神は動物と鳥、また水の中をうごめくすべての生き物と、
地に群生するすべての生き物について
汚れたものときよいもの、食べてよい生き物と食べてはならない生き物とを区別されました。(レビ記 11:45-47)

それで、ペテロは言いました。

「主よ。それはできません。
私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を
食べたことがありません。」(使徒10:14)

すると、再び声があって、彼にこう言った。
「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」

そこで、私は思います。
「きよくない」とか「汚れた物」とかを一体、誰が決めるのだろうか。
それは、神がお決めになることでしょう。

「神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、
神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。
神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、
イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。

「このイエス・キリストはすべての人の主です。」

というペテロの言葉に示されている通りです。

2013年
05月13日
17:48

10: たけ

>>9 kiwiさん
 コルネリオがきよくされていることについて、神に祈り良い行ないをしていたことも記されています。神がきよくされました。

 コルネリオのことを聞いた人が「神はいのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言っています。(使徒11:18)

 異邦人の救いについて、使徒15:8-9に「神は…彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」とも書かれています。

 ルカ15:7に、「罪人の悔い改めによる喜びが天にある。」と言われたみことばが記されています。

 キリストは滅びた(失われた)羊を探して出して、悔い改めに招かれます。

 キリストのことばがそのままに知らされ、それに付け加えられず、そこから取り除かれませんように。

 みことばの学びができましたことを感謝いたします。

2013年
05月16日
22:14

11: kiwi

http://cand.jp/?m=pc&a=page_fh_diary&target_c_dia...
へ続けたいと思います。

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