トクトル

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トクトルさんの日記

(Web全体に公開)

2013年
01月15日
00:21

かのように

今日は、東京で7cmもの大雪が降った。
1時間位で、街は一面真っ白になり、私の家は、高台にあるので、
一面銀世界となった。
今までの景色も雪化粧されたこの町も変わらない。私の家の高台
の風景なのに確かに今ある景色は、私にとって静寂の喜びをあたえ

てくれている。
さて、今日は、主・イエス様に祈り、森鴎外のかのようにと言う
短編小説から、信仰について書こうと思う。
主人公は秀麿という子爵の息子で父は五条子爵当主です。
秀麿は、学習院から東京帝国大学文科大学に入り、歴史科を専攻し

、立派に卒業する。
彼の成したい事は、国史日本国の歴史の研究者成すことです。
 卒業を終えた彼に、父は、洋行することを許す。その目的は、藩

屏になり身分相応な
働きをしていくための基礎の為に、海外で自分なりの文学や文化を

学ばせたいと思ったのだそうだ。
ベルリン→インド、エジプトの港市 ポルトセエト→マルセイユ(

フランス) 
→パリ滞在→ヨーロッパ(ベルリンに3年)色んな地域を旅し、書物

もたくさん買い、すでに奥さんもいて
、彼は、何不自由もなく、悠々自適な生活をしているように、一般

の人々からはそのように、
うつるのでは、ないでしょうか?
しかし、人にとっての幸せとは、人それぞれ違うものだと思います


彼は、旅行中ドイツの宗教家のアドルフ ハルナックという人物を

大層褒めています。
秀麿は、随時、父へ自分の旅の成果や気づいた事を父や家族に伝え

ていた。

アドルフ・ハルナックは、プロテスタントの神学者で、ドイツで、

皇帝ヴイルヘルム2世
が第一次世界大戦に参戦をした時に、肯定した人で、自由主義神学

の楽観的前提に対する
疑問、およびキリスト教世界への危機意識という結果を多くの神学

者達に招来した。
人です。後に新正統主義として、カール・バルトらが登場してくる

のですが、秀麿が、この
アドルフ・ハルナックの何処を褒めたのか?
 その理由が、一番秀麿には、関心があったようです。

当時ヴィルヘルム2世の時代では、旧教ローマ法王をないがしろに

は出来ない状勢にありました。
 そして、ドイツには新興宗教としての強みとして政治の都合で神

学を曲げると言う事をせず、
尚且つ、さかわらないように抑えて北ドイツの新教の精神で文科の

進歩を図る事が実現されていた。
 それには、ウィルヘルム・シュミット2世が宗教上のしっかりと

した基礎を持つ必要性がある。
その新教神学の一人としてハルナックがいた。
ハルナックは、しかし、初代キリスト教会の教理に疑問を呈し、 

彼はヨハネによる福音書を拒絶し、
共観福音書は受け入れ、使徒信条を批判し、社会的福音を推進した

。キリストの復活については、
弟子達の精神的錯乱によって信じられた錯覚とまで考えた。
現代のキリストを信じる者から言うなれば、危険思想の神学者であ

りました。
秀麿は、宗教家ではないが、宗教を信じない事は危険思想であると

いいます。その理由としては、
日本では、天皇は神でありました。
ですから、天皇だって人だから死ぬ事もあると考える事は、危険な

思想であると言う観点から語られて
いますが、歴史家として、将来夢を持つ秀麿にとって、この宗教と

歴史的事実を伝える職を全うしたい
という気持ちから、彼は非常に悩み苦しみます。
なぜならば、日本は歴史学における神話と科学の調和の問題がとて

も大事な事であり、真実の探求から
すれば、とても危惧すべき点て゛もありました。
霊や神道や神社の歴史を端的に述べることはできるけれども、では

神話的な事実に関しても真実として
伝えられるのか。
この問題は、歴史を研究する者として、虚偽の事実を伝えることは

できず、しかし宗教的な自分が信じ
ない神や霊の問題の取り扱いについて深刻になやんでいました。
ですから、彼は自分の職の全うに対して、ハルナックの手法に大き

な期待をもっていた。
私にとって、神は存在し、神とは全世界を作られた方でありまた、

言葉であり、人としても存在する一
つであり、分析するならば、個別の性質は違うが、動的に時間的

にとらえるならば、これを弁証法と
言いますが、全世界の王、主・イエスキリストは、3位1体の神で

ありますと言えます。言葉としての
神も聖霊としての神も動的存在としては、一つだからです。
しかし、神を信じない人にとっては、この問題は躓きの石であり、

目のうえのたんこぶであったようです。
だからこそ、ハルナックの事を父に話たかったのは、歴史家として

宗教的な問題も包括する事を肯定できる
のでしょうか? どうなのか?
と言う問題についての問いかけでした。
父は、このような問題には、全く興味もなくむしろ息子が、宗教的

な事に傾倒しつつある事をよくは思っていません。
 父が願う藩屏になり身分相応な働きをしていき、子爵として家紋

を守る事の為に、洋行させたので、この問題につ
いては、答えないでいた。
家に戻ってからも同様の対応であり、父との距離を感じるようにな

った。
 その中で、彼はドイツの哲学者 ファインフィンガーのかのよう

にに興味をもつ、それによると点も点とはいえず、
線もとらえようによれば線ともいえない。霊魂も父なる神も同様事

実として証拠立てられない者が歴史には建立している。
しかし、主人公が言うかのようにが実は土台としてあるのだと、友

の綾小路は、絵描きを目指しているので、かのよ
うにについては、考えないでおくと言う。
 絵描きとしては、言わずにはいれるが、歴史家は、言う為に学問

しなければならない。 また上記の事実は、自分に
虚偽をさせる事でもあり、それでは自分の立場がなくなってしまう

のだという。
そして、もし宗教的な事実の否定は、父が許さない当然天孫降臨の

事実を受け入れない事は、危険思想であり、父の
家を守る思いを否定し、子爵としての地位さえ揺るがしかねないか

らであります。
この物語を読む時に私が主・イエス様に祈り思う事は、この世に神

がいる存在すると言う事実は、確かであると言える
のではないかと言う事を実感させられます。
神います。歴史の中で、宗教的な事、神の存在を認めないと言う事

は、避けては通れないように、出来ている。
いかに、無神論の知的に学者達が、宗教神の存在を否定しようとも

聖霊や復活を受け入れないようにしようと逃げても
神の英知の前に人々は、神を見ざるえないのではないかと思うので

す。
 詩編139 主よ、あなたは、私を究め、わたしを知っておられる

。 座るのも立つのも知り、遠くから私の計らいを悟って
おられる。 歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通

じておられる。
 私の舌がまだ一言も語らぬ先に、主よあなたはすべてを知ってお

られる。 前からも後ろからも私を囲み、御手を私の上に
おいていてくださる。 その驚くべき知識は、私を超え、あまりに

高くて、到達できない。
聖書を読む時に一番大事な事それは、幼子のようにただただ信仰に

より聖書を素直に読むことです。
嫌いな御言葉も良い御言葉も神様の真理として私達は、頂けかなけ

ればならないのであります。
私達は、主・イエス様の十字架の贖いにより救われました。でも聖

書に反したをかたるならば、神を恐れず、神の裁きを
信じないならば、ヨハネ黙示録22、18 この書物の預言の言葉を聞

くすべての者に私は証する。 これに付け加える者があれば
神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。またこの預

言の書の言葉から何か取り去るものがあれば、神は、この書物
に書いてある命の木と聖なる都からその者が受ける分を取り除かれ

る。
私達は神を恐れなければなりません。
学者の多くは、上記のハルナックと同じように勝手な聖書解釈、をしている人もいるかもしれません。
しかし学者は、歴史的な事実と聖書的な現実との差異に於いて、聖書に忠実で
あれるかが問われている。 今日は、主・イエス様に祈り、信仰を

持つ事の大切さを語りました。
 主・イエス様を信じる人はだれでも救くわれます。
あなたのあなたのその愛は、神様が持つ愛と同じ者です。 なぜな

らば、あなたを愛している神様から私達はつくられたのだから。
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