「ミサと聖体[ 私たちの成聖] 」ラニエロ・カンタラメッサ・著。片岡仁志・庄司篤・共訳。マリオ・カンドゥッチ・監訳。聖母文庫。より。
p143~144
(キリストの似姿に変えられるための、マリアの模範)
エウカリスチアと受肉との間に大きな類似性があります。
聖アウグスチヌスは、
「受肉において、マリアは、体より先に心に御言(みことば)を宿した。(Prius consepit mente quamcorpore.)」
と言います。
そして、
「先ず心に愛をもってキリストを宿していなかったなら、胎内に宿したことは、彼女に何の価値も実際に無かっただろう」
と付け加えます。
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コメント
03月19日
22:20
1: クルミンシタ
p157
聖フランシスコは次のように言うのが常でした。
「ミサに与かれないとき、私はキリストの御体を念祷のうちに礼拝します。そして、ミサで御体を見るときと全く同じように崇めます」。
と。
にもかかわらず、できるだけ静かな、いわばキリストの現存の満ち満ちている場所で、主を含むパンや葡萄酒の形態の前で、キリストの実際の現存のうちになされる観想は、私たちの大きな助けです。
。
03月19日
22:29
2: クルミンシタ
p157~158
(信仰に満ちた礼拝と観想におけるイエズスとの出会い)
ヨハネ・パウロⅡ世教皇は、1980年の聖木曜日に出された
「至聖なる秘跡の秘義と礼拝」
に関する書簡の中で書かれました。
「愛の秘跡におけるキリストへの礼拝は、
御聖体の前での個人的な祈り・聖時間・短時間または長時間或いは一年間の聖体顕示など、
聖体に対する信心のさまざまな方法で表されねばなりません。
・・・・聖体礼拝の活性化と研究は、
[第二ヴァチカン]公会議の目指した真正な刷新の証しであり、中心であります。
・・・・イエスは愛の秘跡の中で私たちを待っておられます。
信仰に満ちた礼拝と観想のうちにイエスと出会うための時間を短くしないように気を付けましょう。」
。
03月19日
22:44
3: クルミンシタ
p164~165
(観想と沈黙、念祷と観想)
このすべては、可能なかぎり、外的・内的沈黙の状態で行われます。
沈黙は観想の最愛の配偶者です。
ヨセフがマリアを守ったように、沈黙は観想を守ります。
::::
(霊性の大家による観想の定義)
霊性の大家たちは次のように観想を定義しました。
「自由かつ、洞察的な、静かな凝視」
(サン・ヴィクトルのユーゴ)
「愛しつつ神を眺めること」
(聖ボナヴェントゥーラ)。
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アルスの小教区にかつて一人の農夫がいました。
彼は身じろぎもせずに聖櫃を見つめながら聖堂で数時間を過ごすのが常でした。
アルスの聖なる主任司祭が、
「そこで、毎日、そうして何をしていますか」
と尋ねると、
彼は答えました。
「何もしていません。私はあの方を眺め、あの方は私を眺めます!」
。
03月19日
22:51
4: クルミンシタ
p166~167
(体による祈り)
イエスは、私たちが(そうしようと思えば)聖体の前を去って、他の多くのもっと愉快なことに従事できるのをご存知です。
ところが、そこに留まって、私たちの時間をただイエスに差し出しています。
心で祈ることが出来なくても、体で祈ることはいつでもできます。
そして、それが体の祈りです(心が不在ではないとしても)。
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03月19日
23:08
5: クルミンシタ
p162~163
これは、春の季節に葉緑素作用によって木々に起こることと何か似ています。
緑の葉が枝から芽吹いて、空気中から或る要素を吸収します。
すると、その要素が太陽光線を浴びて、「固定され」、
植物の栄養となります。
これらの小さな緑の葉がなければ、植物は成長することも実を結ぶこともできず、人間が呼吸する酸素の再生にも貢献しないでしょう。
私たちはこの緑の葉のようでなければならないのです!
緑の葉は聖体的霊魂の象徴です。
これらの霊魂は「正義の太陽」キリストを観想しながら、
聖霊御自身である栄養素を「固定」して、
教会という大木のために貢献します。
それは、聖パウロが他の言葉で表現していることです。
「私たちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(Ⅱコリ3・18)。
現代の詩人が素晴らしい詩を作り、その中で言いました。
御聖体の前で観想している霊魂にもよく当てはまる言葉です、
「私は限りない光に照らされています。」
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03月19日
23:16
6: クルミンシタ
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