トクトル

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トクトルさんの日記

(Web全体に公開)

2012年
06月07日
23:14

アッシジのクララ

今年5月は金環日食があった。
 私が今度日食を見ることは、おそらくないだろうとおもう。
太平洋側を中心とした広いエリアの大都市で見ることができ、日本総人口の3分の2にあたる8300万人の生活圏で金環日食が見られるうえに、これほど広範囲で見られるのは西暦1080年以来932年ぶりの出来事といいます

 世間では、日食を見る為に日食用のサングラスが売れ、学校では、休校にしてその日は、日食を学んでほしいと言う所もあった。
 

 日食当日、私は、完全な日食を見ることは、会社に行く途中でしたので、見ることは、叶いませんでしたが、幸いにも、日食が三日月のようになった姿を見ることは、できました。

 日本には、日食に関する神話があります。
ある時、スサノオノミコトらんぼうろうぜきに怒り、太陽神である天照大神があまのいわどにお隠れになり、世界が真っ暗闇になった。
最後には、やおよろずの神が天の安河原(あまのやすがわら)の川原に集まり、どうすれば良いか相談をし、相談の結果、天細女命(アメノウズメ)が天岩戸の前で半裸で踊り、何事かと岩戸を開けたとき、力自慢の手力雄命(タヂカラオノミコト)が岩戸をこじ開けて天照大神(アマテラスオオミカミ)を外に出し、入り口を塞いでいた岩の戸を手力雄命(タヂカラオノミコト)が投げ飛ばしました。そうすると天界と地上界は元のように明るくなった。
という物語があります。
私も、日食を通して、太陽を与えてくださり、永遠の命の言葉を光のごとく与えてくださ
ったことと、この世には、光と闇があり、罪があるということを主・イエス様から教えられました。

 さて、今日は、ペンテコステ:聖霊降誕日で、教会では、とてもめでたい日です。
私たちの救い主のイエス様が、十字架の死に3日目によみがえったあと、五旬祭の時に
使徒達が聖霊を受けた日です。
 私達は、聖霊を受けることにより、力が与えられ、救いは完成します。
 聖霊を受けるということは、私達が新たに生まれると言うことでもあり、私にとって日々の生活を見直す日でもあります。
そんな中私がすぐに思い出す人がいます。
その人は、1194年生まれの人で、アッシジで生まれたアッシジのクララといいます。
1210年の四旬節で聖フランチェスコの説教に接し、その精神に心酔、その後、ふたつの結婚話を断り18歳の時、アッシジの聖フランチェスコに師事するため家を出た。

 それから、たったの3年後の1213年には、修道女になり、裕福な生活を捨て、1215年までベネディクト修道院で、生活する。
18歳から献身をし、愛も裕福な家庭も捨て、ただただ、全世界の創造主である。
主・イエス様に右にも左にもそれず、彼女は、真っ直ぐに真理の道を歩みます。
 

 その後、聖フランチェスコの助力により、クララは、クララ修道女会を設立する。
最初は、聖フランチェスコの支援で、アッシジのサンダミアーノの教会近くに家を与えられ、母や、姉妹を初めとする女性たちの小さな群れでありましたが、クララ修道会は、フランシスコ会と同様に、何にか精神的価値を見出そうとした人々により、ヨーロッパに於いて、急速に主・イエス様の助けにより、広まっていった。
極貧状態の貧困に甘んじて、寄付金のみで生活をしていたのにもかかわらず、寄付金は、かなり増えた。
普通ならば、欲がうまれそうなものだが、40年修道会のリーダーであったクララは18歳の頃とまったく変わらず、右にも左にもそれず、厳格な規律を決して緩めようとはなさらなかった。
1243年アッシジが、神聖ローマによる、脅威の時、祈りと自らの課した苦行により、町を救う。
 

ローマ教皇のグレゴリウス9世が歳費割当ての申し立てをしてくれた時にも、このような状況で、厳しい生活の中、その申し出を断りました。
彼女の人生は、ベットから起き上がれないような時にも、いつもアッシジの町と、自分の修道女達のことを心配し、まさに、主・イエス様のような心の清い生き方をなされた人でした。

 彼女は、ある時、具合が悪く、朝課に出られなかった時、教会で歌う、修道女の歌声と
共に、まぐさ桶の中のイエス・キリストをはっきりとみたのだと言います。
私は、この人の話を聞くときに、神は、神の言葉として、聖歌の中に、そして、真理の言葉の中に私達の心のなかに、住んでくださる、そして、上記のような生活を感謝して生き、町を救うことができたのは、すべては、聖霊様の御働きであると思います。

 今現代の世では、人は、常に争いの中にいます。
経済の中に、また貧富の中に、人の心の中に常に葛藤があり人は心休まることを知りません。
人の心は常に何かに満たされる為に、自分の幸せの事だけがすべてで、若い頃は特にそうなのですが、目にみえる短絡的な快楽楽しみにより、まどわされがちです。
しかし、私達人は、本来神の被造物として造られており、私を造ってくださった神の栄光を帰す為につくられています。
それは、上記のクララのように、誰かの為に生きることこそが、自分の為に生きることなのであるという、本来の神の恵みである、自己に気づくことを、主・イエス様は求められます。

 フィリピ1、21 わたしにとって生きるとはキリストであり、死ぬ事は益なのです。
なぜ、聖書のパウロも、クララもこのように生きれるのでしょうか。
それは、フィリピ2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執せず、7 かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました。

 人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
だからこそ、私達は、原罪の罪の中にあっても、主・イエス様の救いを述べ伝えます。
そして、キリストの体を着るという表現が聖書で出てきますが、それは、上記のようにすべてを捨て、キリストの為に生きるならば、あのジョン・ウェスレーがいったように、大いに獲得し、大いにあたえるならば、この世は、平和でみたされ、私達日本も世界もすくわれます。
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