たけ

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たけさんの日記

(Web全体に公開)

2011年
10月16日
05:56

彼らはやみの子だったのか?!?

マタイ25章に、娘たちのたとえとタラントのたとえがあり、どちらにも、やみに捨てられた人たちがいます。

 Ⅰヨハネ5:16に「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。」とあります。

 やみに投げ出された人は死に至る結果となったので、死に至る罪を犯していたのだと見ることができます。

 ところで、死に至らない罪を犯す人への祈りが命じられ、その約束が示されているのは、なぜでしょうか。「願うなら、聞かれる」という条件と帰結が示されているので、兄弟の互いの愛を行なわないでいる人たちの危険が暗示されているようです。

 もしみなが互いに愛し合っていたなら、どのようにして主を待つのか、どのようにして主の賜物によって生きるのかを十分に確かめ合い、分かち合うことができたはずなのですが。

 やはり、やみの子だったので、人の見えるともしびだけで、油がなかったり、愛は恐れを追い出します、という使徒のことばを否定していた人たちだったのでしょうか。

 第一ヨハネには、マタイ25章のたとえを解明するための教えが満たされているのでしようか。

コメント

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2011年
10月18日
14:18

1: tiroru

本気に調べたくなる記述です。
一つ一つを解明したいです。
しかし、今のところ、落ち着いて取り組めません。

どなたかが迎え水をして下さればいいな~!

2011年
10月20日
06:50

2: たけ

>>1 tiroruさん
コメントをありがとうございます。
お米と水と熱でおいしいご飯が炊き上がります。それでも、経験的にまずお米と水を一定の時間いっしょにしておきます。
自分がお米で、御霊の中で過ごせるなら、結果として、良いものが期待できるように思います。

 互いに愛し合うことが教えられているⅠヨハネで、「神から生まれた兄弟」の愛を無視して、「自分で自分を守るのだ」と言うなら、失礼になります。しかし、ひとりで過ごすことの多い人に、自己吟味は大切です。

 二つのたとえについて、それぞれの人がまずⅠヨハネの教えの通りに完全にされて、働きや生活の場に出て行くのであれば、恐ろしい結果は避けられています。

 多くの反キリストの働きの結果、多くの人に分裂とやみへの転落が避けられないことが初めから示唆されているのであれば、私たちに、最初の大切な「神に召されて生まれている」ことについての事実確認が第一に必要です。

 「信じなさい」と言われて「信じます」と答えた人の中から、不信仰になる人が出ることもあるのなら、最初に、みことばを聞いて、人の心にしっかりと根を下ろすことに注目して、キリストを信じているかどうかを確かめ、それが神から生まれた結果であること、そして、その人は神から生まれた人を愛していることがわかるなら、安心です。これはⅠヨハネの証です。

2011年
10月24日
21:26

3: tiroru

只今ガラテヤ書の学びをしています。次にヤコブ書の学びにしようかな?と思っていました。第一ヨハネこれも興味がありますね。

一度救われた者は、いのちの書にその名が記されているので、闇の世界に落されることはないのではないか?と思うのですが、如何ですか?

>>Ⅰヨハネで、「神から生まれた兄弟」の愛を無視して、「自分で自分を守るのだ」と言うなら、失礼になります。しかし、ひとりで過ごすことの多い人に、自己吟味は大切です。

上記のたけさんのお言葉は、主にある兄弟の愛の忠告を聞かないということでしょうか?兄弟は守ってくれる?忠告してくれるということですか?

☆まさか見えない姿で来られるのではないでしょうね。
その場合はどなたか判らない故に、失礼があるかも知れません。
また、プライバシーの侵害で私が怒るかも知れませんが・・・心配ですね。

2011年
10月24日
21:38

4: kiwi

ヨハネの福音書では、世についてこのように言っています。

ヨハネ: 3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ヨハネ: 3:17
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
ヨハネ:12:47
だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。

ヨハネの手紙では、世についてこのように言っています。

第一ヨハネ 2:15-19
世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。

すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。

世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。

小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。

彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。

ヨハネの福音書で使われている「世」と
ヨハネの手紙で使われている「世」は同じ意味でしょうか。

ある人は同じ意味だと言います。
多分、それは正しいのでしょうが
原語ではどうなっているのでしょうか。

2011年
10月24日
21:52

5: tiroru

たけさんの終わりの方の

>>最初に、みことばを聞いて、人の心にしっかりと根を下ろすことに注目して、キリストを信じているかどうかを確かめ、それが神から生まれた結果であること、そして、その人は神から生まれた人を愛していることがわかるなら、安心です。これはⅠヨハネの証です。


これについて、現在、開拓中の大事な人がいます。

「心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」

「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも、あなたの家族も救われます」
の二つのみことばの種をまきました。

手ごたえはあったのですが、信仰告白の時に、「イエスは預言者だと信じます」と言いました。これはご近所に「ものみの塔」の信者の奥さんがいて、影響を与えていました。

一歩のところで受け入れの祈りに導く事を断念しました。
イエスの十字架を信じているらしいのですが、神から生まれたとは言えないと思うのですが・・。

今も時々、お茶を共にしたり、食事を共にすることがあります。よく確認することが必要ですね。やはり受け入れの祈りに導いた方が良いのでしょうか?

刈り取りが早過ぎて、途中で信仰からずり落ちたらかえって可哀そうなので・・・・

クリスチャンの私に良くして下さるのです。私にとっても手中の玉の様な存在なのです。救われることを祈って生みの苦しみです。

良い知恵でも、忠告でも、ありましたらお知らせ下さい。m(__)m

2011年
10月24日
23:48

6: kiwi

私は今、いくつかの場面を思い起こしました。

その1 ルカ 3:15-

民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではあるまいか、と考えていた。

ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

・・・このとき、ヨハネはイエスが救い主であると確信していたに違いありません。しかし、

その2 マタイ 11:2-

獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、
イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」

・・・イエスが救い主であるとの確信が揺らいでいるように思えます。

マタイ 16:13-

イエスが弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
と尋ねると、
彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」

イエスは彼らに言われた。
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

シモン・ペテロが答えて言った。
「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

するとイエスは、彼に答えて言われた。
「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。
このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、
天にいますわたしの父です。

・・・イエスは神ですと告白させてくださるのは、御父だと
思います。自分自身の努力でもなく、他人から勧められたからでもなく
ただ、父なる神の一方的な恵みによって信仰が与えられたと思います。
しかしその信仰は、ある日突然、天から降ってきたわけではなく、試練と共に、ゆるやかに与えられたものだと思います。
今、私はそのように確信しています。

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