たけ

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たけさんの日記

(Web全体に公開)

2011年
10月16日
05:56

彼らはやみの子だったのか?!?

マタイ25章に、娘たちのたとえとタラントのたとえがあり、どちらにも、やみに捨てられた人たちがいます。

 Ⅰヨハネ5:16に「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。」とあります。

 やみに投げ出された人は死に至る結果となったので、死に至る罪を犯していたのだと見ることができます。

 ところで、死に至らない罪を犯す人への祈りが命じられ、その約束が示されているのは、なぜでしょうか。「願うなら、聞かれる」という条件と帰結が示されているので、兄弟の互いの愛を行なわないでいる人たちの危険が暗示されているようです。

 もしみなが互いに愛し合っていたなら、どのようにして主を待つのか、どのようにして主の賜物によって生きるのかを十分に確かめ合い、分かち合うことができたはずなのですが。

 やはり、やみの子だったので、人の見えるともしびだけで、油がなかったり、愛は恐れを追い出します、という使徒のことばを否定していた人たちだったのでしょうか。

 第一ヨハネには、マタイ25章のたとえを解明するための教えが満たされているのでしようか。

コメント

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7番~26番を表示

2011年
10月25日
13:34

7: たけ

>>3 tiroruさん
そこで私が言おうとしたのは、Ⅰヨハネ5:18の「神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができない」の訳について、その「方」が兄弟であると解釈できれば、その部分としては理解できると言いたかったためです。私はここについては、神から生まれた人は自分を守るので、と解釈しています。

2011年
10月25日
13:43

8: たけ

>>2 たけさん
Ⅰヨハネ5:4に「 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」とあるところの「神によって生まれた者」は、「神の働きによるすべてのもの」と解釈しています。信仰は、神の愛と蒔かれたみことばの働きの結果であるので、人についての教えではないと考えています。

 このような訳のこともあるので、「神から生まれる」ことについて、語り合えたらと願いました。

2011年
10月25日
14:08

9: たけ

>>4 kiwiさん
引用されたヨハネの福音書と手紙で、「世」は同じ原語コスモスですが、辞書によっては、①世界とその中にあるもの、②人類、③神に敵対するもの、などのように、その意味を文脈などによって分けて、説明しています。

 それでも、人類であれば、「人」という別の語があるので、「世」が人の意味で語られているところでも、神を知らないでいるような、神や天から分けられている状態の人について話されているようですね。

2011年
10月25日
15:50

10: kiwi

>>9 たけさん

原語についての情報ありがとうございました。
同じ語を文脈によって使い分けるのは難しいことですが、重要なことだと思います。

2011年
10月26日
16:34

11: tiroru

「神から生まれる」こついて、

第一ヨハネ5章4節
新改訳聖書―――「何故なら≪神によって≫生まれた者は~~~」
口語訳聖書―――「~すべて≪神から≫生まれた者は~~」

第一ヨハネ5章18節
新改訳聖書―――「≪神よって≫生まれた者は~~」
口語訳聖書―――「すべて≪神から≫生まれた者~~」

≪よって≫と、≪から≫の表現の違いがありますが、これらのことは新生したクリスチャンを指していると考えます。

5章18節の後半
新改訳―――「~~~≪神から生まれた方≫が、彼を守っていてくださる
         ので、~~」
≪神から生まれた方≫―――これはイエス・キリストのことです。

新改訳聖書の表現の方が理解しやすい。

◆ややこしい表現は、口語訳聖書です。

「すべて≪神から生まれた者≫は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。≪神から生まれた方≫が彼を守っていてくださるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。≫

どちらも、同じく≪から≫と言う字を使っています。

イエス・キリストもクリスチャンも同じく≪神から生まれた≫と言うことになります。意味慎重ですね。

2011年
10月26日
16:44

12: tiroru

№8の神によって≪生まれた者≫(ギリシャ語でト・ゲゲネーメノン)は、直訳によると「生まれたもの」であって、人と限定されていないそうです。
たけさんのお考えと似ていますね。

2011年
10月27日
10:46

13: たけ

>>11 tiroruさん
 「イエス・キリストもクリスチャンも同じく≪神から生まれた≫と言うことになります。意味慎重ですね。」とのことについて、私は理解できないために、私の解釈を申し上げています。

 初めから父とともにおられた御子を知らせ、永遠のいのちを知らせるこのヨハネの手紙においては、どのような意味でイエスが神から生まれているのでしょうか。

 イエスは、復活の時、神の子と呼ばれました。

 この手紙では、死からいのちに移されることについて、愛、種、ことばによる誕生について総合的に神からの働きを知らせています。

Ⅰヨハネ3:16のいのちを「捨てた」を文字どおりに理解されているのですか。私はプシュケーを置いたと理解しています。死と復活ではなく、永遠の愛と血にによってきよめられやみから光に、世への愛から兄弟愛に移されることが主流となっている考え方ではないのでしょうか。

 それぞれの個所で、全体と調和した用語の意味を理解したいと願っています。

2011年
10月27日
21:15

14: kiwi

>>13 たけさん

マタイ 3:16-によれば、

こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。

また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

とあります。

ヘブル 1: 5 によれば、

神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」

とあります。

また、ヨハネ 1:13によれば、

この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

とあります。

この3箇所によって、現在、私が理解していることは次の3つです。

1. 神がイエスを我が子と宣言されたのは、
イエスがバプテスマを受けられた時であった。

2.神が「わたしが生んだ」と宣言されたのは
御子イエスただお一人であった。

3.「神によって生まれた」といわれる人々も結局、
被造物にすぎない。
父なる神、御子、聖霊、これ以外は全て被造物である。

パウロは言います。(ローマ 9:20)

しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と言えるでしょうか。

陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。

まことに、私たちは陶器にすぎず、神は私たちを造られた方です。

2011年
10月28日
21:19

15: tiroru

話の流れからは、的外れかも知れませんが、
今日、ガラテヤ書6章14節を見て、あれ!

「しかし~~~≪世界≫はわたしに対して十字架につけられ、私も≪世界≫に対して十字架につけられたのです」―――新改訳

≪世≫はわたしに対し、わたしは≪世≫に対し~~」――-新共同訳

たぶん原語は同じはずですよね。

2011年
10月28日
21:37

16: tiroru

「神から生まれた」―――イエスさまが洗礼をお受けになった時の父からの宣言は、やはりイエスさまが人間としての新生の形を現わした洗礼であったからだと思わされます。確信はありません。

本来神のひとり子ですから、わざわざ宣言することはないでしょう。これは人間に対する(見本)型ではないでしょうか?

悔い改めて神を信じ、洗礼を受けた。(古い自分に死んだ)そして新生して神のものとなった。

クリスチャンは、イエスさまを長子とする神の子になり、神の国の財産をつぐ者と言われています。ですから同じ言葉の「神から生まれた者」ではないのかしら?そんなことを考えました。

2011年
10月28日
23:54

17: kiwi

ヨハネ 1:12-13
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

とありますから、
イエスを受け入れた「人びと」は「神の子ども」「神によって生まれた者」と表現しても間違いではないと思います。

しかし、神以外(神には御子と聖霊も含まれますが)は、全て神が造られたものということにかわりありません。

2011年
10月29日
00:51

18: kiwi

「 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」
について、調べているときに、ある記事が目にとまりました。

http://cand.jp/?m=pc&a=page_fh_diary&target_c_dia...

2011年
10月31日
08:19

19: たけ

>>16 tiroruさん
 キリストを信じている人が神から生まれいて、復活のキリストのように、肉においては死に、キリストとつながれて生きていることは、大切な真理です。

 私が話していることは、自分自身がキリストのような者となっていることがわかるように、ヨハネが書いているという点についてであり、キリストが守ってくださるということではなく、復活のキリストのように神から生まれているので、そのことがわかるために、あれこれと示していることです。

 ヨハネ16:31で産んだことと生まれたことが並列して話されています。ニコデモが疑問に持ったようなことが起こらないためだと私は感じています。

 神の働きが自分自身のうちにあり、完全な者とされているための注意すべきことがらが、それぞれにおいて確認されていれば、この議論は必要ないでしょう。

 いつも、話し合いの中で教えられることが多いので、コメントを感謝しています。

2011年
10月31日
18:11

20: tiroru

たけさん。
いつも高度なことを話されるので、私は明瞭に理解できていないようです。
≪完全な者とされているための注意すべきことがら≫

これは興味津々です。解説お願いできますか?

2011年
10月31日
18:16

21: tiroru

№18のkiwiさん。
「この世に対して十字架につけられた」をクリックしました。
長~い長~い記事に最後はいい加減な読みになりました。すみません。

kiwiさんが、これをまとめて短く要点を絞って下さればいいなーと思います。

2011年
11月01日
20:01

22: kiwi

>>21 tiroruさん

要約ではなく、引用元の原文がここにあります。

http://www.geocities.jp/ogcclib/book2chap9.html

2011年
11月01日
21:37

23: kiwi

>>19 たけさん

ニコデモはパリサイ人の中で、数少ない愛すべき人だと思います。
イエスとニコデモとの対話の場面について、以前、
書いたことを思い出しました。

http://cand.jp/?m=pc&a=page_c_topic_detail&target...

2011年
11月02日
08:43

24: たけ

>>20 tiroruさん
質問してくださる方から教えをいただくことは、私の日常です。今回も同じです。
Ⅰヨハネ2:5,4:12,4:17に、テレイオオーという語があり、新改訳では、「全うされている」「全うされる」「完全なものとなりました」と訳されています、日本語の全うするは、「終わりまでやりとおす」意味のようですが、キリストの贖いによって、神の愛が信じる人においても完全にされていることをヨハネが書いています。

 キリストが全うされただけでなく、みことばを守る人においてです。また神の命令に聞き従う人においてです。

2011年
11月02日
22:02

25: tiroru

たけさん。
聖句をお知らせ頂いたので、理解しやすくなりました。
ありがとうございます。
神の愛が全うされている。自己犠牲のアガペーの愛ですね。
キリストのうちにあってキリストが歩まれたように謙遜と自己犠牲、愛の歩みをする。それは光としての歩みでもあります。

神からの愛は、聖徒の中に再現される時に完全になります。すなわち目的を達成するということです。

神の愛は現れるだけではなく、人々を生かし、その人々を愛に駆り立てていく。その意味で神の愛は、キリスト者の中に働き続けているのです。

そんな理解です。

2011年
11月03日
09:26

26: たけ

>>25 tiroruさん
 私はキリストと神の子のそれぞれが全うするというよりも、共同により完全にされるという理解をしています。それで、これらの三つの箇所の私の訳は「完全にされる」です。御子が先ず全うされて、模範を示されています。しかし、その本質には、あなたの代わりに全うしたのだよ、という知らせもあります。

 そのキリストの強さと人の弱さを覚えるとき、それぞれの全うというよりも、神の愛による共同と完全にされることを覚えます。

 神が命じられる互いの愛は、神から生じる本質を強くするみことばの種の実です。神の命令は、神から生まれたキリストを信じている人にとって、神の愛の真実を確認させ、喜ばせ、安心させます。

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