たけ

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たけさんの日記

(Web全体に公開)

2011年
08月03日
15:06

キリストにあっても罪人ですか

 次の文で、事実でないこととは、どれでしょうか。

 ガラテヤ2:17 「もし私たちが、キリストにあって義と認められることを求めながら、私たち自身も罪人であることがわかるなら」とあるところです。
 
 本文で明らかなとおり、キリストは決して罪に仕える者ではありません。
 次に、「使徒と聖徒の『私たち』が、キリストにあって義と認められることを求め、または、努めながら私たち自身も罪人であることがわかる」ということも仮定であるのか、仮定ではあり得ないのかどうかです。

 そのために、最初の「与える」ものが聖徒たちにあるのか、あるいは「捨てられた」ので、だれもそれを持たない、のような関連が、ここでの理解につながるのかどうかというのが、私の二番目の質問です。

 「キリストにあって義と認められる」ことがどのように求められ、確認されるのかということとも関係があるかもしれません。

 独善的な解釈を避けたいので、質問いたします。

コメント

2011年
08月03日
21:23

1: みの

繰り返し確認するうちに、疑問点がよくわからなくなってきました。後半の疑問やつながる聖書箇所(1:4でしょうか)もしくはその疑問点における関わりがよくわかりません。


取り合えず仮定節についてです。
原文の構造を見ると、下線を引かれた部分までが仮定節です。
ですから、その部分も仮定であって事実ではありません。

まえの部分は事実ではないかとお考えでしょうけれど、切り離して考えるのではなく、一まとまりで条件節を構成して意味を形成しているものですから、事実と事実でないことが組み合わさっていても問題は有りません。

2011年
08月04日
02:01

2: kiwi

 
「キリストにあっても罪人ですか」
と問われるなら「キリストにあっても、生きている限り、罪は犯します。それを罪人と言われるならば、罪人です。」と答えます。

たけさんの本文で書かれていることは、
今ひとつわかりません。

2011年
08月04日
07:03

3: kiwi

>>2 の続きですが、

一方、
ローマ 8: 1でパウロは
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

と書いていますが、この箇所の罪に定められないという意味は、
死んだのち永遠の刑罰を受けないことと理解しています。
「キリスト・イエスにある者は罪人ではない」という意味ではないと思います。

2011年
08月04日
10:22

4: たけ

>>1 みのさん
 実にわかりにくい質問を書いたものだと、申し訳なく思います。そして、その後、この仮定がキリストにあるガラテヤの聖徒への、問いかけであり、「キリストにあって義と認められる」というこの書にもはっきりと言明されている真理について、実際の状況を、聖徒たちがどのようにして確認できるのかを書き、律法の行ないと信仰の聞くこととの対比などがくり広げられているように感じています。>>

2011年
08月04日
10:39

5: たけ

>>2 kiwiさん
 よくわからないので、質問にしたのですが、その後、感じていることを 4 に書きました。

 キリストにあっても罪は犯します。このことのために、Ⅰヨハネの罪の区分の、死に至るか、そうでないかが見分けられています。

 パウロは、罪を見分ける方法ではなく、聞いて信じて御霊に従っている人と肉の行ないの人とを分けているのですが、肉の行ないの人について、Ⅰヨハネの見分け方と比べますと、結論が同じになり、欲望を愛してはならないとの命令を受け入れず、ことばの愛(やみ・偽りの中)にいて、真実の行ないや御霊の実が結ばれていないのです。

 ヨハネはキリストにある人の喜びが完全にされるために書きました。パウロも主にあって喜ぶために、書きました。

2011年
08月04日
17:16

6: tiroru

「キリストにあっても罪人ですか」と問われるなら、
[罪を許された罪人です。」と答えます。

信仰者であっても失敗はあります。しかし、イエスキリストの故に過去、現在、未来に至るまで罪を許されています。しかし、悔い改めの祈りは毎日致します。聖化の道を歩んいるからです。

わたしの信仰はそういう信仰です。

2011年
08月04日
20:25

7: みの

キリストにあって義とされるのに、律法を持ち込んだら、キリストは不完全で、律法違反を持ち込む罪の助成者になってしまうだろう。でもそうじゃないだろう。

そういうメッセージの箇所ですよね。

2011年
08月04日
23:42

8: kiwi

>>4 たけさん

>「キリストにあって義と認められる」というこの書にもはっきりと言明されている真理について、実際の状況を、聖徒たちがどのようにして確認できるのか、についてですが、

当時のガラテヤ人がどのようにして確認できたかわかりません。
ただ私は、自分が神様から祝福されていると確信できたとき、義と認められたと確認できるのだと思います。それは、次のようなことかも知れません。

「この世で義とすること、子とすること、聖とすることに伴い、あるいはそれから出てくる祝福は、神の愛の確信、良心の平和、聖霊による喜び、恵の増加、そして、それらのうちにあって終わりまで堅く保たれることである。」
そして、それに関わる聖書箇所は、
ローマ5:1、2、5
ローマ14:17
箴言4:18
Ⅰヨハネ5:13
Ⅰペテロ1:5

2011年
08月05日
06:21

9: たけ

>>6 tiroruさん
コメントをありがとうございます。
渇いたときがあれば、かならずいただけるいのちの水を求め、私たちのために聖と義となられたキリストから受け、私たちのうちにすんでくださる御霊を覚えて、目標を目指していきたいと思います。

2011年
08月05日
06:22

10: たけ

>>7 みのさん
コメントをありがとうございます。よくみことばを聞いて、歩きます。

2011年
08月05日
06:26

11: たけ

>>8 kiwiさん
 コメントをありがとうございます。多くの聖句で確認されて、自分自身が主の祝福の証明であるとお示しくださっています。
 
 私もそのように見聞きしていきます。

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