たけ

<< 2011年7月 >>

12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31

たけさんの日記

(Web全体に公開)

2011年
07月31日
06:20

聖書を読むことと御霊の導き

 聖書の訳は、必ずしも、原語の意味に基づくとは思われない箇所があります。

 信仰によって義と認められると書かれている多くのところで、その信仰が、人から出て持っている信仰なのか、神が人において始められた信仰で、神の信頼性と真実に主導され続けるものであるのかを、見分けなければ、悪霊の惑わしに捕らえられて、独善に陥り、悪霊とともに滅びることになります。

 自分が信じているからその信仰によって自分は正しいのだという人が、自分の内面も自分の実際の行ないにも、注意することなく、自分の好きなことばで世を渡り歩き、世の生活を自慢し、欲望の奴隷のままでいるようなことがあるならば、その人はキリストの命令を守っていないので、キリストを知ったこともない人です。

 毒麦のたとえで、弟子たちは、それを見分けて、それに対する対処の方法についても、主にたずねて知らされています。

 福音の主要な点は、良い麦の完成と、毒麦を見分けて、良い実を結ぶ人たちの交わりを強めて、良い実を結び続けることです。

 主は正しい人の医者とはなられません。正しい方々が、悪霊の子どもたちではないことを、御霊を求めて確認されますよう。

 このことばは、私が自分自身のために、聞かされたことです。

コメント

2011年
07月31日
08:23

1: kiwi

パウロは手紙のなかで、幾度か「命じます」と書いています。

また、別の箇所で

私は、ほんとうにみじめな人間です。
だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

そして、

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」
ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。
私はその罪人のかしらです。

と告白しています。

私がパウロのことばに耳を傾けるのは、
彼が一方的に命じるだけではなく、自分自身を罪人のかしらと認めているからです。

2011年
07月31日
17:28

2: たけ

>>1 kiwiさん
 私は莫大な借金を赦された者なので、たましいを捨てるのではなく、たましいを置き、あわれみ深い者であれとの、命令を受けていることを信じています。ことばや舌を愛さず、真実の行ないを持つようにと命じられています。

 私は翻訳が多数あることに反対しているのではなく、自分の心に記されているみことばによって話し合うことを喜びとしています。あなたのお心のみことばをお知らせくださりありがとうございました。

2011年
07月31日
18:33

3: kiwi

>>2 たけさん

>ことばや舌を愛さず、真実の行ないを持つようにと命じられています。

過去に読んだ記事を思い出します。

ペンと口先ですばらしいキリスト論を説くことができても、
身をもって「キリストとの交わり」を証しできなければ、
すべては無益である。

それと、これは祈りの一部ですが、

あなたを宣べ伝えさせてください。
ことばによってではなく、わたしたち自身の模範によって
人をとらえる力によって、人のこころに共感を呼び起こす行動によって
わたしたちのこころに満ちるあなたへの愛の証しによって
あなたを知らせることができますように。


私たちは行いによって救われるわけではありませんが、
救われた者は、良い行いをするように命じられています。
しかしながら、この世界に生きている間は、
命令を完全に守ることが出来ません。

SNSは、言葉だけの交わりです。
その言葉には、それが語られる背景や体験があると思います。
それは神様だけがご存じですが、
神様を通して、私たちはそれを共有することができると思います。

2011年
08月01日
11:21

4: たけ

>>3 kiwiさん
パウロが最も見下された者、とるに足りない者に、神の啓示をされる旨のことばを記しています。行ないのないみじめな者にも、励ましと確かな導きを与えてくださいます。一歩でも歩けるために。感謝しています。

2011年
08月01日
17:01

5: たけ

>>3 kiwiさん
 ことばだけの世界では、できれば、客観的な面だけで、たとえば、文字や語感や教えの解釈などの範囲にとどめるのがよいと思います。実際の人の行ないを話しはじめても、どうなのかわからないためです。

 私は、Ⅰヨハネ3:16の話に続いて、Ⅰヨハネ19,20を読んで、兄弟たちに尋ねたことがあります。神はあなたが自分で思う以上に厳しい方ですか。どうですか。神はみなさんの真実を知っています。神はあなたよりも偉大です。

 心を安らかにされた人が多かったように感じました。いのちを捨てるの訳を主張される方はだまっておられました。

2011年
08月01日
20:41

6: kiwi

>>5 たけさん

このSNSで、3年以上にわたりいろんな方々との交わりがありました。
対面したこともなく、声を聞いたこともありませんが、
神様を通して共感し、喜び、悲しみを共有できたことを
嬉しく思います。
一方で、ある人々は怒り、失望し、退会されました。
また、ある人々は退会されてはいないものの長い間ログインされていません。

>ことばだけの世界では、できれば、客観的な面だけで、
>たとえば、文字や語感や教えの解釈などの範囲にとどめるのがよいと思います。

そこで、思い起こした記事があります。

すべての人に対して心を開くのはやめなさい。 相談をするときには賢明で神をおそれる人だけにしなさい。 若い人や見知らぬ人と付き合うのはやめなさい。 お金持ちにへつらってはいけません。 偉い人との社交を好むのはよしなさい。 へりくだっている人、単純な人、信仰の篤い人、穏やかな人と付き合いなさい。 その人たちと徳を高められるような会話をしなさい。 いかなる女性とも親しい関係にならないようにし、 すべてのよい女性を神に薦めなさい。 神と主の天使とのみ親しく交わるようにし、 人から注目をあびることを避けなさい。

私たちはすべての人を愛さなければなりません。 しかし、すべての人と親しく交わるのは得策ではありません。 その人をあまり知らない人たちの間では評判が良いけれど、 その人をよく知っている人たちからは大した評価を得ていないということが、時にあるものです。 自分が親しくして相手を喜ばせていると思っても、 相手のほうは私たちの欠点に気がついて次第に不快になるということがよくあります。

この記事の引用元はここです。
http://www.hyuki.com/imit/imit1.html#i8

2011年
08月02日
15:15

7: たけ

>>6 kiwiさん
 コメントをありがとうございます。

 パウロが人に喜ばれようとしているのか、そうであれば、キリストに仕えているのではない旨のことを手紙に書いているのを思い出しました。

 もっとも親しい人から、最も大切にしている信仰生活の土台ともされている聖書の書物と文字についての、真理ではなく、個人の偏見が聞かされるとなると、たまったものではなくなるということでしょうか。

 最初の五旬節で、聞く人がそれぞれの国語で聞いていること、現在の世界の各国語や方言への翻訳も原語に基づいて行なわれていることなどから、聞く人が知らされたことを伝えるので、アバ父よをパパと表現するようなものですよ。と言って、よろしければ、と申し上げるべきところでしょう。

 しかし、このような話は、家族や親友から、いやがられていることに間違いありません。 このことは、一種の人のつながりの裂け目が感じられるようなことです。しかし、それは、私がそのようなことを知っている自己を滅ぼしながら、それ以上に、みことばをより確信することを願って行なっていることです。自分がそれでよいとは思っていませんが、私においては今のところ、同じパターンの学びを続けています。

 あなたの実に広範囲なご配慮やご注意を、今までも、知らせていただいていますが、どんな偽りも真実の証によって、滅ぼされていきますから、だれもがそれを見ることになるでしょう。

 あなたが心がけておられる、あらゆる良いわざへのご配慮が実を結び、上から与えられる確信がますます強められますよう。

2011年
08月02日
21:07

8: kiwi

>>7 たけさん

コメントありがとうございます。

>アバ父よをパパと表現するようなものですよ。

と、書かれていましたので、英語版を比較するサイトを調べました。

ほとんどの翻訳は Abba, Father となっていましたが、ひとつだけ
このように訳されたものがありました。
You can tell for sure that you are now fully adopted as his own children because God sent the Spirit of his Son into our lives crying out, "Papa! Father!"

アバとは、アラム語で「お父ちゃん、パパ」という幼児の言葉である。
という解説があり、かつて、牧師からもそのように聞いたことがあります。であれば、Papa! Father! と、表現してもよいのではないかと、
私は思います。

2011年
08月02日
21:28

9: kiwi

>>7 たけさん

>パウロが人に喜ばれようとしているのか、そうであれば、キリストに仕えているのではない旨のことを手紙に書いているのを思い出しました。

ガラテヤ 1:10のことですね。

いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。

この前後に書かれていることも大切なことだと思います。

ガラテヤ 1: 6-
私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。
ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。
しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。
私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。

そして、10節へと続きます。
さらに、11節へと続きます。

兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。
私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

イエスが人としてこの世におられたとき、パウロ(サウロ)とイエスの出会いがあったかどうか私は知りません。しかし、彼が宣べ伝えている福音は、イエス・キリストから啓示によって受けたものであると信じます。

2011年
08月02日
21:42

10: kiwi

たけさん、次の箇所は原語でどう書かれているのでしょうか。

ルカ 16:16
律法と預言者はヨハネまでです。
それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、

ここまでは、だいたいわかります。

「だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとしています。」
英語版の一例では
every man entereth violently into it.
となっています。

原語ではどうなっているのでしょうか。
そして、この箇所はどのような意味で語られたのでしょうか。

2011年
08月03日
13:43

11: たけ

>>10 kiwiさん
 原語は、「ピアゾー」で、「暴力を用いる」、「無理やりにどこかに入る」、「妨げに対抗する」のような意味があります。

 預言者の時代が終わり、主と弟子たちによる神の国の福音が宣べ伝えられ始めた頃のことで、人々の神の国に対する状況の描写であり、御国や御国にはいることについては、多くの教えが別のところにあるので、「入ったのか、どうか」までは、ここで話されていないように思います。

2011年
08月04日
00:12

12: kiwi

>>11 たけさん

ご教示ありがとうございます。
原語とその意味はわかりましたが、
文章の意味はやはり不明でした。
ただ、
もし、自分がその時代に生きていて、
福音を聞いていたら、なんとかして
御国に入れてもらおうとしたかも
知れません。

2011年
08月04日
10:07

13: たけ

>>12 kiwiさん
 辞書の中に、語意の説明と、○○2:3ではどちらの意味であるか、判断できない。のような編者の注の付されている語があります。語意がわかっても、話された意味がわからないことがあり得ます。

2011年
08月05日
01:15

14: kiwi

>>13 たけさん

ありがとうございます。
>語意がわかっても、話された意味がわからないことがあり得ます。

わからないところは、わかる日が来るまで待つしかありませんね。

また、別の語句で「邪悪な良心」と訳されている語句がありますが、
これは原語ではどうなっているのでしょうか。そして、その意味とは?

聖書箇所は、以下です。
ヘブル 10:22
そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

2011年
08月05日
10:15

15: たけ

>>14 kiwiさん
原語は、「スネイデシス」、語意は、意識、良心です。ヘブル1:22について「悪い意識又は、咎める良心」の意味のコメントのあるものがありました。

2011年
08月06日
06:46

16: kiwi

>>15 たけさん
ありがとうございます。

今日、改めて「良心」という語句を新約の中で探したところ29箇所ありました。「邪悪な良心」は1箇所だけで、あとは「正しい良心」「きよい良心」単に「良心」と表現されています。
「邪悪な良心」とは理解困難な表現です。

2011年
08月06日
19:46

17: kiwi

>>16 の続きです。

以前、このように思ったことがあります。

「邪悪な良心」とは人間が生まれながらに持っている良心のことではないか。

「自分には良心がある」と思っていても
生まれながらに持っている良心というのは、
「邪悪な良心」ではないだろうか。

パウロは、「義人はいない。一人もいない。」と言い、
生まれながらの人はすべて罪人であると言う。

人は自分が罪人であることを認めたくない。
しかし、自分が神に対して罪人であることを自覚したとき、
自分が裁かれるべき人間であることを知る。

しかし、人は自分自身の罪を取り除くことができない。

>キリストは、彼を信じる人々の罪を負うために、
>ご自身をささげられました。」

10:19
こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。
そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
ヘブル 10:19-23

2011年
08月06日
21:52

18: たけ

>>17 kiwiさん
 辞書の中に、「…あるいは…}とあるように、全体の理解においてどちらでも、影響がないと判断されているのでしょう。ですから、あなたのお話になることに、「そうです」とお答えします。

: