たけ

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たけさんの日記

(Web全体に公開)

2011年
07月28日
12:47

完全になるには

 Ⅰヨハネ2:5を、私の知識で、表現しますと次のようになります。

 『キリストのことばを守る人は、確かに、このことにおいて神の愛が完全になり、このことにおいて、私たちが神のうちにいることを知ります。』

 人の側に、小さな御声を聞く力があるのを知ることができたとき、それは、神が与えてくださっているイエス・キリストを知るための力であると理解することができます。Ⅰヨハネ5:20,21。御父と御子とともにある交わりが、真理の目じるしになっています。

コメント

2011年
07月28日
20:37

1: kiwi

1john 2: 5
しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。

この新改訳とたけさんの表現の違いがよくわかりません。

2011年
07月28日
21:16

2: kiwi

「完全」になるようにと、イエスはこう教えられました。

マタイ 5:48
だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

マタイ19:21
イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

そして、これに続いて、
「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」と。
弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」

何もかも捨てて、イエスに従った弟子たちがこのような質問をしたことは驚きです。

この世界に完全な人はいません。
また、この世界には裕福なクリスチャンがいます。
彼らは金持ちです。

イエスの教えを文字通りに解釈すると、彼らが神の国に入るのは
ラクダが針の穴を通るよりも難しい。
仮に比喩だとしても、相当に難しいことのようです。

2011年
07月28日
22:36

3: みの

この箇所のおける「完全」は、神の愛に関わる「完全」なので、他の箇所を参照するのは返って理解を難しくすると思います。

直接の関連ではないのですが、私の理解において「完全」であるということは、キリスト様にのみ頼り、キリスト様以外に何一つ頼むものが無いという要素が大変大きいと感じています。そして、この信仰の態度は、言うには易しいのですが、実践するにはかなり困難を伴う瞬間があります。

2011年
07月28日
23:39

4: kiwi

>>たけさん
「完全になるには」というタイトルで始められた日記でしたので、
思いつくままにコメントさせていただきました。

私たちは「完全」「永遠」「神の愛」などの言葉を用いますが、これらを完全に知ることはできないと思います。

パウロ先生の言葉を借りれば、
今、私たちの知っているところは一部分であり、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ているにすぎないと思います。

しかし、時が来れば、完全に知ることが出来、はっきりと実体を見ることが出来ると信じています。

2011年
07月29日
11:00

5: たけ

>>4 kiwiさん
 完全になることについて、真実はマタイ13:23の良い実のたとえで示されています。

 ヨハネの手紙では、互いの愛の実現において、御子が人を愛され、人が御子のように、御子が愛して生んだ同じ神の子を愛し、互いに愛し合うところに、神の愛が完全なものとされました。と教えています。

 それでも、この完全は、個人個人の完全であって、愛し合う負債のある完全です。ですから、ヨハネは完全と負債をどちらも明らかにしています。

 もし、この完全を御子と一つにされている証として喜べるなら、負債を負うことも、愛の生きた働きとして、「互いに」行ない続けて、ゆたかな実を結ぶことになります。

 しかし、現実は、悪い者の働きもあるので、互いに行なう行ないのない人がはびこり、強盗の巣、口先だけの人のことばを信ぜよと叫ぶ集団が起こりやすいのです。

 私たちがみことばの真実を自分自身のうちに確かめ、神から受けているものを分かち合うことに励むことができるためには、偽り者の叫ぶ、目に見えるものにこだわった声に迷わされることなく、真実の完全を見極める知識を備えておくべきです。

 どれほど小さくて美しい多くの種類の花の種が育ち花を見せ、種をふやすことでしょう。

2011年
07月29日
11:13

6: たけ

>>1 kiwiさん
 もしどちらも、同じであれば、幸いです。真実があなたに理解されているので、どちらでも良いのです。「完全、完成、全うされた」その実体が確認されているからです。

 もし発言の意図を知りたいとたずねる方があれば、「完全にされた」と「全うされた」との言葉の違いではなく、手紙全体の理解に関係しています。私はたましい・プシュケーを「捨てる」(Ⅰヨハネ3:16)という意味ではなく、不足している兄弟への同情を閉ざさない、真実の愛の行ないを持つことが、御子の愛と使徒のことばに表現されていると理解しているからです。

2011年
07月29日
12:50

7: kiwi

>>5 たけさん
マタイ 13:23
良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。

み言葉を悟るなら、その人は本当に実を結ぶと言われますが、
悟ることが出来るのは自分自身の力ではなく、
これもまた、神からの賜物だと思います。

また、パウロの言葉を借りますと、

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、

キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

2011年
07月29日
13:11

8: kiwi

>>6 たけさん

以前、「捨てる」という訳について、ここで、たけさんと
問答した記憶があります。

英語版では、lay down または、giveと訳されていますね。

私としては「置く」「与える」「なげうつ」「犠牲にする」
どれでも良いと思います。み言葉全体を正しく理解することができればです。

2011年
07月29日
22:05

9: たけ

>>8 kiwiさん
 日本人は日本語しか見ていないのですから、それで、文脈や主の教えが理解できていれば、それで言うことはありません。

 私の場合は、「いのちを捨てる」意味が理解できず、「たましいを置く」ことで、続いている実際の行ないについての教えがよくわかったのです。

 世の富を持っている人がそれを持っていない兄弟のために、あわれみをかけるか、かけないかということが、たましいを置くことの実際の例として話されています。たましいを置くので、神から受けているあわれみがその人のうちで閉ざされないで、自分の兄弟に行き渡ります。 

 それは莫大な借金を赦した王のあわれみと愛を受けた人が兄弟を愛するときに、王の愛がその人において完全なものとなり、かつ、偉大な愛の負債を覚えて、愛の中で生きることと調和します。

 多く赦された者が多く愛すると言われていますので、この理解は、正しい方には、理解できなくてもよいことに違いありません。

2011年
07月29日
22:37

10: kiwi

>>9 たけさん

今回のたけさんのコメントに共感します。

「多く赦された者が多く愛すると言われています」

このことについて、以前、思いを巡らしたことがあります。
http://cand.jp/?m=pc&a=page_c_topic_detail&target...

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