たけ

<< 2011年7月 >>

12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31

たけさんの日記

(Web全体に公開)

2011年
07月27日
06:41

日々の第一歩

 「死に至らない罪があります。」このことについて、しばしば、議論されます。

 Ⅰヨハネで、取り扱われている罪については、いくつかの見分け方がなされています。罪そのものを指して不法なものと言われています。
 
 神の愛・命令は、真実に立つ、世にある悪い者、欲望や自慢の生活に打ち勝った人々を生み出しています。

 神の光には、命令・戒めがあり、人がその命令を守って生きるところで、神の愛は完全なものとなります。

 この手紙では「初めから」という見分け方で、初めから愛される方と、初めから悪を行なう者を比べています。初めから愛される方に召された人はこの光の中を歩くので、そこにやみはありません。死のやみ、どこへ行くのかわからない生活から、救い出されています。

 死に至らない罪について論じられるとき、罪を悔い改めれば赦されることとともに論じる人がいます。それはそれで重要なことです。

 Ⅰヨハネにおいては、「初めから」のことが示されているので、「死に至るか至らないか」の結果ではなく、『死に向かう』のか『死に向かわない』のかを見分ける方が、光の中を歩く人の日々の第一歩とも調和しています。

コメント

2011年
07月27日
12:14

1: kiwi

1ヨハネ5:16-17
だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。
不正はみな罪ですが、死に至らない罪があります。

以前、
http://cand.jp/?m=pc&a=page_c_topic_detail&target...
で、この箇所を取り上げたことがありますが、
今になってみると、結局、よくわからない。
ということがわかりました。

例えば、サウル王は神の命令に従わず、悔い改めることもしなかった。ゆえに、彼は死に至る罪を犯した。(と明確には書かれていないと思いますので、これは推測ですが)
一方、
ダビデ王は姦淫の罪を犯した。しかし、悔い改めたので、死に至る罪とはならなかった。
とすれば、死に至る罪かどうかは、悔い改めの如何にかかっているように思います。
しかし、悔い改めにも二つあって、いのちに至る悔い改めと、いのちに至らない悔い改めがあると聞きました。
そうなると、わけがわからなくなってしまいます。

結局、死に至らない罪とはどんな罪なのか、
また、赦されざる罪、聖霊をけがす罪とは、どんな罪なのか。

今のところ、よくわかりません。

2011年
07月27日
12:27

2: kiwi

もう一つわからないのが、「選び」です。

http://cand.jp/?m=pc&a=page_c_topic_detail&target...

今、振り返ると、当時は理解したつもりになっていただけかも知れません。

2011年
07月27日
20:40

3: kiwi

ローマ 9:11
その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、
「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。

「選びの計画」と訳されている語は、原語でも同じ意味でしょうか。
選びの計画とは一体何でしょう。

パウロ先生に尋ねたら、どう答えるでしょうか。

2011年
07月27日
21:16

4: kiwi

ヨハネ 1:11-12
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

ここで「特権」という語が使われていますが、原語でも同じでしょうか。

「選びの計画」と関連しているのでしょうか。

まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、
神は、特定の人を選び、その人の行ないにはよらず、
イエスを信じる信仰(これも神が与えられたものであるが)によって、
神の子どもとされる特権をお与えになった。

と読みましたが、どうでしょうか。

2011年
07月28日
06:31

5: たけ

>>1 kiwiさん
 聖霊に逆らう罪について、「霊」という語のプニューマを見つめていきますと、人の霊、悪霊、聖霊、御子の霊などと、霊について、並列に見えるようになります。それは、生きた多くの魚と、人の手で作った木や石や金属でできた魚をいったん、同列にして、見直すような感じになります。
 
 そして、三位一体の中の聖霊だけなのか、アバ父と呼ぶ御子の霊なのか、どうして、御子の霊が聖なる霊と呼ばれていたら、それが聖霊と必ず区別されなければならないのか、などと考えていくようになります。

 そして、御父と御子がいつも一つであられた生き方を覚えるとき、これらの神の霊もまた1つであることを覚えます。そして、みことばについてのヨハネ12:47,48での原語に注意したいと思います。
 「わたしの言うこと」と終わりの日にさばく「わたしのことば」には、最初がレーマ、後がロゴスと使い分けがされています。

 御子は仲介者となられたので、人の言い逆らいや無理解を受け入れて導かれます。ですから、みことばの種によって生まれる前と、生まれている人とでは、みことばとのつながりが異なります。ロゴスを受け入れている人でなければ希望はありません。

 結局のところ、キリストを信じていますか。このことが大切なことです。

 キリストを信じ、キリストのひとつひとつのことばが人にやどれば、神の霊がやどっていますから。

 わからなくなることは、わかることの手前にあって、神からのものと人の作ったものとを見分ける前の状態かもしれません。

2011年
07月28日
08:59

6: kiwi

>>5 たけさん

コメントありがとうございました。

一部分理解できましたが、一部分は理解困難でした。

 「結局のところ、キリストを信じていますか。このことが大切なことです。」
これは難しい問いだと思います。
「私は信じない」と答えることは簡単です。しかし、
「私は信じる」と答える場合、私達は試されます。
それはどの程度の信仰なのか、その信仰は本物か。

これは私の場合ですが、聖書を読み、書いてあることをある程度
理解していたと思いますが、
クリスチャン(洗礼を受けることを条件とした)になることはできませんでした。私達がキリストを信じる信仰に導かれるのは自分自身に与えられた試練や体験を通してだと思います。

何かを探し求めることは、洞窟を探検しているようなものだと思います。それを発見したと思って喜んだが、本当はもっと先にあった。
あるいは、通り過ごしたところにそれはあった。

2011年
07月28日
09:19

7: kiwi

>>6 の続きです。

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。
(黙示録 2:4-5)

クリスチャンになりたての頃、私は神を求め、神を慕い、
クリスチャンとなったことに感謝した。
最初は教会の中で祈ることに不慣れだった。
今のところ、皆さんの前で祈ることに抵抗はなくなった。
しかし、本当の祈りから離れているような気がする。

2011年
07月28日
11:53

8: たけ

>>3 kiwiさん
ローマ9:11の選びの原語は、「エクロゲー」で、逐語的に私は、「神の計画がとどまる選びによって」と解釈します。

2011年
07月28日
12:08

9: たけ

>>4 kiwiさん
ヨハネ1:12の「エクス―シア」は、権威、権限、支配力の意味もありますが、『何かをなす能力、可能性を与える力』のような意味に、私は解釈します。(辞書に基づいてのことです。) そうしますと、「キリストがご自分の造られた世に来られて、ご自分の民のところに来られたのに、受け入れなかった人があり、受け入れた人には、子となるための力を与えられた。」と読むことができます。

2011年
07月28日
16:06

10: kiwi

たけさん。
ご教示ありがとうございました。
「選び」「特権」「能力」いずれも単語としては理解出来るのですが、

「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の計画がとどまる選びによって、行ないにはよらず、召してくださる方によるように」と置き替えても、この意味は私にはよくわかりません。

2011年
07月28日
18:58

11: kiwi

ヨハネ 1:13
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

この箇所を私は、つい昨日まで間違って記憶していました。
「この人々」のところを「この方(キリスト)」と信じ込んでいたのですが、それは誤りでした。

英文ではこう訳されていました。
12 But as many as received Him, to them He gave the right to become children of God, to those who believe in His name: 13 who were born, not of blood, nor of the will of the flesh, nor of the will of man, but of God.

ニコデモとイエスの対話を思い出しました。
「この人々」というのは多分、「新しく生まれた人々」だと思います。

2011年
07月29日
10:37

12: たけ

>>10 kiwiさん
 計画された方とその話を聞く人との、関係が、あくまでも自己を介入させ ないで客観的であり続けようとするのかどうかに関係があるかもしれません。

 それは安全な見方です。ただし、そこに基準とか真理とか証言の有無などをしっかりと整えて判断する必要があります。神について、どのようなことが認められ、確かに真実の神であるのか、もし、このようなことに目が向けられたら、神がどれほど多くの証をされているのか、わかるようになるかもしれません。人と人の造った偶像の違いもよくわかるかもしれません。

 神の計画が、自分をも含めた人の救いのための計画であるのか、自分には無関係なものだと判断するかについては、その人だけが知ることのできるその人自身の真実の確認と関係があると思われますので。

: