たけ

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たけさんの日記

(Web全体に公開)

2011年
05月31日
04:10

なぜみことばの解釈が分かれるのか

 「知能」によるのか、「思い」によるのか、その解釈の違いは、解釈する人のひらめきで分かれるものでしょうか。それは、みことばを聞き取ろうとする側の求め方とその結果によるものです。

 辞書を見て、その意味の多いことに驚く「語」があります。それでも、そこに合理性があります。ことばが表わす概念の全体を示す語である「知性」が訳語として表現されています。そして、知性の働きを示す、「考え」や「思い」などの語あり、その働きの結果である「意見」や「理解」の語が続いて示されています。

 ですから、神を愛するときに、意見や理解によって愛するという人も、考えや思いによって愛するのだと解釈する人も、その人が聞き取ったものを表現しています。

 「知性」の類義語の「知能」は、訳語として辞書で見ることが少ないかもしれません。それでも、何が語られているのかを考えるとき、しかも、文脈で人の主要な部分が列挙されていると理解できるなら、思考や意見の概念を包括するような訳語でみことばを受け入れることも可能です。

コメント

2011年
05月31日
20:45

1: kiwi

最近、Webで偶然発見した記事に共感しましたので、その箇所を
引用させていただきます。

聖書解釈について多くの有名な学者が論争を繰り返し、分裂を引き起こしているという過去の歴史があります。
現在の私たちにとって大事なことは、今日という日を信仰によって神様の恵みのうちを歩むことです。
私たちは「正当な聖書解釈」によって生きるのではなく、神のみことばに対する信仰によって生きるのです。

引用はここまでです。

主に感謝せよ。
主は、恵み深く、
そのいつくしみは
とこしえに絶えることがない。

このみことばを思い起こすとき、
私は大いに慰められます。

2011年
06月01日
22:08

2: みの

>たけさん

述べられたことがよく理解できませんでした。

2011年
06月01日
22:13

3: みの

>kiwiさん

>私たちは「正当な聖書解釈」によって生きるのではなく、神のみことばに対する信仰によって生きるのです。

解釈できない、あるいは解釈が分かれているという状況において、「神のみことばに対する信仰」を持ち、それによって生きるというのは、どういう有様、在り方のことでしょうか。よろしければご教示ください。

自分としては、そういう状況において、単純に神のみことばに対する信仰によって生きることが、具体的にどういうことで、どういうつながりになるかが理解できません。

2011年
06月02日
00:37

4: kiwi

>>3 みのさん

汚れた霊に取りつかれた子の父親は、
「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
と願いますが、やがて、その父親は切羽詰まって叫びます。

「信じます。不信仰な私をお助けください。」

聖書に書かれていることが解釈できない、
あるいは解釈が分かれているという状況というのは
切羽詰まった状況ではないと思います。

本当に切羽詰まったときには、
「信じます。不信仰な私をお助けください。」
と祈るのみです。
そして、その状況から助け出されたとき、
「恵み」を、本当に身にしみて感じます。

聖書を学ぶことは大切なことだと思います。
そのような機会を与えらるていることは大きな恵みだと思います。

解釈できない、あるいは解釈が分かれているという聖書箇所に
深入りしすぎると、神様の恵みを見失ってしまうのではないでしょうか。

と、今日、私は思いました。

2011年
06月02日
09:59

5: たけ

>>1 kiwiさん
コメントをありがとうございます。

前進させるものは、真実を求め、愛するように、導いてくださる主から受ける力です。

深入りしすぎると学者の講堂の聴衆になり、主の弟子でなく、小さなものを見分けて大きなものを見分けない者になりそうに感じます。

2011年
06月02日
10:20

6: たけ

>>2 みのさんさん
 古典ギリシャ語の学びの現場で、与えられている確かなものは、わずかな表現、たとえば、霊(プニューマ)であれば、冠詞+プニューマか、冠詞のないプニューマか、「きよい」とか、「汚れた」とかの形容詞やそのような役割を果たす修飾語とともに、理解すべきプニューマなのか、文字を見ることが解釈の基本にあります。

 講壇から教師が、霊は名詞だからその語の内容は限定されていると言います。
そこに冠詞がついていれば、さらに冠詞によって限定されているだろうか、どのようなことを明確にしているのか、と言います。

 冠詞の役割は、前に述べたものを指す場合があります。文脈から明らかにされているものを理解する必要があります。

 冠詞がないので、その本質を指しているのだと理解できる場合もあります。

 しかし、太陽のように、単一のものには冠詞がつかないと言われています。

 結局、文脈や話している方がだれであるか、などに注意しながら総合的に理解することがいつでも必要だと感じています。

 このことから、単に知識が増すことでなく、主は、互いに結ばれてともに生きるために、話しておられるように感じます。

2011年
06月02日
14:46

7: みの

>たけさん

> 結局、文脈や話している方がだれであるか、などに注意しながら総合>的に理解することがいつでも必要だと感じています。

> このことから、単に知識が増すことでなく、主は、互いに結ばれてとも>に生きるために、話しておられるように感じます。

どちらも定石と言いましょうか、前提的な内容であると感じました。
解説をありがとうございました。

2011年
06月02日
14:48

8: みの

>kiwiさん

>解釈できない、あるいは解釈が分かれているという聖書箇所に
>深入りしすぎると、神様の恵みを見失ってしまうのではないでしょうか。

それはよくあることですね。

ただ、切羽詰っているかどうかは、み言葉の大事さには関係ないと思いました。

2011年
06月02日
20:35

9: kiwi

聖書学という学問があります。

ウィキペディアによれば、
聖書を対象に、文献学的方法、また人文科学的な
(言語学、考古学、地理学等)諸方法を用いて本文批評をし、
キリスト教の立場からすると、
原初期の聖書とキリスト教を明らかにしようとする学である。
と解説されています。

聖書をよく学んでいるノンクリスチャンよりも
聖書に詳しくなくても、神様の命令を心にとめ、
それを実行しているクリスチャンを
神様は喜ばれるのでしょう。

私はただ神の前にひれ伏し、沈黙し、
信仰の足りなさを悔い改め、
聖霊の助けを求め、
喜んで主の命令に従い、
最後にはキリストが約束された安息に入りたいと願います。

2011年
06月04日
23:51

10: kiwi

>>4 の続き

子どもの父親は
「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫びました。
この父親の気持ちは、同じような体験をした人であれば共感できると思います。
イエスは「からし種一粒の信仰があれば・・・」と仰いました。
私には、それほどの信仰もありません。
しかし、それで良しとしてくださる主に感謝します。
主の恵みと慈しみに感謝します。

2011年
06月06日
11:50

11: たけ

>>10 kiwiさん
 信じている方のおことば・霊のうちで、おことば・霊によって生きることができることは、喜びです。

2011年
06月08日
00:02

12: kiwi

若い頃、よく聖書を読んだものでした。
その頃、私はクリスチャンではありませんでしたが、
知人のクリスチャンよりも多く聖書を読んでいると思っていました。
そして聖書を知っている事を誇りに思っていました。
今は誇りとは思いません。
当時、聖書の記事をノンクリスチャンの方たちに話すことを
喜びとしていました。
初めてキリスト教を知ったのは幼い頃でした。
家族も先祖もみな仏教でした。神道と仏教が浸透した日本の社会、
特に普通の会社生活で主の命令を完全に守ることは難しいことです。
妻の両親はクリスチャンでしたが、妻はノンクリスチャンでした。

定年まで10年を切り、人生も半分以上過ごした頃、
私と妻は同日に洗礼を受けました。そして
教会生活が10年経過しました。
受洗前も受洗後も様々な試練があり、
これからもあるだろうと思います。

日々、みことばが自然に湧いてきます。
聖書を知っていることは恵みです。
みことばによって生きていくことは
もっと大きな恵みであり喜びです。

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