たけ

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たけさんの日記

(Web全体に公開)

2011年
02月27日
17:20

霊を見分ける幸い

 イエス・キリストが世におられ、御霊が人にくだる前には、何度まで罪を赦すべきかという議論がなされました。

 主イエスを告白する霊は、相手に100円の損失を与える罪と100億円の損失を与える罪を見分けようとはしません。ただ与えようとします。

 100円の盗みをする霊と100億円の横領をする霊は同じ悪霊の仲間であることがわかるので、そのすべてを排除しているからです。

 罪を回数で意識することも、きよい御霊を持つ人には無用です。罪との戦いが何度あるのかと意識することもしません。

 ヨハネは、その手紙の中で、この世の悪い者に勝った子どもや父たちに、勝利の証をしています。 主の御霊が「求めよ。与えられます。」と言われているものを理解して 求めます。

コメント

2011年
02月27日
18:36

1: tiroru

ヨハネ14:13。 15:7。 5:4、5:5。

16:33ーーー『わたしがあなた方にこれらのことを話たのは、あなた方が、わたしにあって平安をもつためです。あなた方は、世にあっては艱難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです』

第一ヨハネ4:4---『子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。
そして彼らに勝ったのです。あなた方のうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。』

たけさんのおっしゃることは、このようなことなのでしょうか?
焦点が定まらない理解ですみません。

2011年
02月27日
18:51

2: tiroru

内なる真理の御霊によって見分けることが出来る幸い。
又、わたしの名によって求めなさい。~~~もう少し具体的に的をしぼって頂くと、こんな私でも判りやすくなります。

2011年
02月27日
23:18

3: kiwi

ペテロがみもとに来て言った。
「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、
何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」

イエスは言われた。
「七度まで、などとはわたしは言いません。
七度を七十倍するまでと言います。
(マタイ 18:21-22)

少なくとも私はこのことを実行することができません。
クリスチャンの皆さま方はいかがでしょうか。

人を赦さないなら、
あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。
(マタイ 6:14-15)

といわれましても、そう簡単に赦せないことが多々あります。
一方、次のようにも言われました。
このように言われると、私は戸惑ってしまいます。

まことに、あなたがたに告げます。
人はその犯すどんな罪も赦していただけます。
また、神をけがすことを言っても、
それはみな赦していただけます。
(マルコ 3:28)

このあと続いてこう断言されました。

しかし、聖霊をけがす者はだれでも、
永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」
(マルコ 3:29)

永遠に赦されない、
聖霊を汚す者とは、どんな者でしょうか。

2011年
02月28日
05:05

4: たけ

  ヨハネの福音書に書かれている 主が行なわれたしるしの中で あなたが 最も感動したしるしは何でしょうか。 ラザロのよみがえりは、実に多くの人々を信仰に導いたようです。
 
 イエスがわたしは 神の指で悪霊を追い出しているのなら、神の国は来ている言われたことのしるしはどこで最もわかりやすいでしょうか。

 わたしはヨハネ8:6,8で、主が指で地に書いておられたときのしるしを信じます。

 そのとき、だれひとり、自分の罪を認めない人はいませんでした。偽り者は、追い出されていました。イエスの前で罪を認める者は、悪霊から救い出されていたのです。


 多くの人にはこのしるしが、わけのわからないイエスの動作と解釈されているかもしれません。

 イエスは父の示されることを行なわれ、父のことばを伝えられたのです。それは、いつでも、そうです。見えない人たちの解釈や翻訳のめがねでは見えなくなってしまいます。

 みことばを満たしていれば、自分の目で見えるようになります。

 いつも 主にあって喜びましょう。パリサイ人や律法学者たちも イエスに逆らうのをやめて、罪を犯した人から 離れて行ったのですから。

2011年
02月28日
15:27

5: tiroru

聖霊を汚す者について詳しく明確になりたいです。
み言葉を汚す?と少々違っているのでしょうか?

聖霊体験をした人には、簡単に判るかも知れません。

霊体験でも聖霊かそうでないのか見分けが難しいのがあります。

先日、カトリックでは、信者が救われると家族全員が救われるのだ。という人がいました。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます』の聖書の解釈の違いだと思ってコメントしました。

プロテスタントでは、先ず一人が救われて、後に、家族の誰かから救われてゆき、家族の全員に及ぶと思います。

その夜?明け方かも?「いもづる信者!」と言われました。

このような霊は聖霊とは思えないのです。

2011年
02月28日
15:46

6: tiroru

だれでも人を裁く資格はないということでしょう。裁きは神さまのなさることです。
しかし誰でも、どんな事でも許すべきか?それが疑問です。

特に、加害者が未信者であり、謝罪も悔い改めもない場合は、被害者の信者は、相手を許すことが困難です。ゆるせない自分に信仰者は苦しむわけです。こんな不当な苦しみはないと思います。主の御心を、その時その時、確信を持って知りたいものです。

また、悪魔の配下の働きを許してはいけないと思います。
常識では考えられないことですが、クリスチャンには何をしても良いのだ。と思っている人もいるのです。愚か過ぎますが。

2011年
02月28日
21:35

7: kiwi

>>3 の続きです。

http://cand.jp/?m=pc&a=page_c_topic_detail&target...
へ続けます。

2011年
02月28日
23:41

8: たけ

>>6 tiroruさん

 主が、神の指で、地に書いていたとき、イエスは群がっていた悪霊(ヨハネ8:44)を追い出されました。祭司長やパリサイ人は、イエスに逆らうことなく、イエスの権威に従いました。石を投げる者はだれもいなくなりました。

 残されたひとりの罪人は、イエスのみことばを聞きました。「これから決して罪を犯してはいけません。」

 ヨハネは、手紙で 罪を犯してはいないと言う者は、神を偽り者としていること、また、イエスの血は、自分の罪を言い表した者を すべての罪からきよめることを書いています。そして、ヨハネは、信じた人たちが父と御子との交わりを持つようになるために、書いて、光の中にやみはないと話します。

 このやみのない光の中に移されている人と救い主との関係は、罪のための贖いをしてくださった方と罪を言い表した者との一致です。その場合、弱くてまだ罪を犯しそうになる者であっても、とりなし、弁護してくださる方と共に生きる交わりがあります。その人は、御霊によって新しく生まれているので、肉の働きを滅ぼすことや新しい愛の生き方を学んでいきます。

 そして、やみのない光の中にいるという確認は、神から生まれた者から悪がでることはないという真実を理解します。神から悪い者は出ません。神から出た者は悪い者よりも力があります。

 罪は、悪い者、この世の者が、彼ら自体が悪であるために、それを現わすものです。それは、神に逆らうものであり、御子を信じないものです。彼らが8:6,8の場合のように、石を投げなかったからといって、彼らが罪を赦されていたのではありません。彼らは、8:44によれば、御子に聞き従わない者であり、彼らには神の怒りがとどまります。

 このことが判別できて、光の中で、神を愛して生きることが学ばれる時、
神のみこころに沿う生き方を求める同じ救われた人々の間での、「罪」と言われるものは、性質が異なります。彼らは、聖霊を受けていたので、悪霊がありません。悪霊が100円を盗ませる悪霊でも、といったのは、悪霊は初めに少しだけでも、大ぜいをつれてきて、人の中で住むためです。
 
 ヨハネは世にある悪い者には、警戒するようにといいます。ヨハネは死にいたらない罪と死にいたる罪を分けています。死にいたらない罪を犯す人には、神がいのちをお与えになるといわれているので、御霊に導かれていることでしょう。

 また、ヨハネ8:6,8では、神のことばが悪霊よりも力のあることが明らかにされているだけで、心の中で罪を認めただけの人は、神に罪を言い表わしてはいないので、キリストを殺そうとしています。

 自分自身のうちにいただいている神のいのちの力、死人をよみがえらせたいのちの力を覚えて生きる生き方に、みことばを聞いて行なうことが失われることはありません。

 イエスのみことばには力がありました。しるしとして、悪霊が追い出されました。みことばには悪い者よりも力があります。

 神が罪人を救われるご計画でのイエスの血による贖いがなし遂げられるために、その血が神による証として、一時的な悪霊の暴力、みからだが突き刺されることが起こりました。

 それでも、血や霊や水や主のみことばやみわざは、神の真実を証して信じる人を救うために、輝いています。
 悪魔によって、世にもたらされた偽りと死は、神のいのちのことばと真実の証によって、うち壊されています。

2011年
03月01日
00:29

9: たけ

>>3 kiwiさん

 悪を憎む者にとって、それは赦せないものです。ハデスで、義を行なったために殺された人は、赦さずに、主に復讐をお願いして、もうしばらく待つようにと 言われています。

 まず赦せ、そして自分の赦しを祈れ、と言われるとき、それは、みことばに聞き従うことです。

 神を恐れない人が、だれでも赦すといっているのであれば、それは善に対する熱心さも義を求めることもないので、ただの放縦であって、その人自身が赦されるためには、何の意味もない行為です。

 聖霊に逆らう罪については、初めから悪い者である悪霊の奴隷、神と交わりがあるといいながら、やみの中を歩む者、死に至る罪を犯す者、そのようにして御子に聞き従わないために、神の怒りがとどまる者の犯している罪であると思います。

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