トクトル

<< 2011年2月 >>

12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728

トクトルさんの日記

(Web全体に公開)

2011年
02月09日
23:28

絶望から希望へ

2月になり、寒さは一段と厳しくなった気がする。
今日は、雪がちらちらと降っていた。
しんしんと東北地方では降っているようですが、今年私の住む東京地区では、初雪ではないかと思う。
そんな中九州地方では火山の噴火があってからもう何週間たっただろうか。
 そんな中でも、私の近所の梅を見ると何とも言えないこの世を美化した目で私は見てしまう。
さて、今日は、私は、罪と言うことについて、川端 康成がかいた「千羽鶴」
という本から主・イエス様から罪=分裂についておそわった。
 私達人類最初の祖先アダムとエバは、最初は一人の人アダムであったといいます。
ヘブル語では、土とはアダーマー、といいます。
人は、はじめ一人で、神は人が一人でいるのは良くないとして、アダムのあばら骨からエバをつくたといいます。
 またプラトンは、二人がひとつとなる衝動むすばれる求める思いは、失われた半分を得ようとする行為
ともいいます。
またデモクリトスという方は、アトムというそれ以上分けられない概念を生みだしましたが、昔の哲学者達は万物はどう

いう形にしろ一つの根源から万物は生まれるという考えをもっていた人も多々おられたようです。
 人は罪がある前には、全世界の創造主である主・イエス様と、思想考えに於いて一致一つであったのでしょうが、
人がサタンにそそのかされた時から、原罪の罪がうまれたといいます。
だから私達は、聖書を読み真の自分に気づくべく、真理の探究=主・イエス様をもとめるわけですが、
私は罪ということについて分裂について川端康成の千羽鶴という物語から主・イエス様から教えを学びました。
 この物語は、男と女の物語で、主人公の菊治の父お茶の師匠と母そして、二人の女性お茶の師匠を亡くなった父

から受け継いだお茶の師匠栗本ちか子、父と関係した大田の未亡人と息子菊治、そして未亡人の妻の娘大田 文

子と千羽鶴をもっていたゆき子の物語です。

  この物語では、陶器や水差しなどが抽象的に人を美化する表現として使われており、また彼らは罪という自覚
よりも、陶器などを通し自分の罪に苦しみながらも、その対象を陶器のたとえまた陶器の美しさにより、自分を
なぐさめているシーンがある。
 ところで川端 康成さんが書きたかったことは、人の罪の醜さでは無く、人が真の罪人であり、罪の性質をもって
いるどうしようもない存在であるそして人は、常に自分の勝手な都合で罪を解釈してしまいがちである。
けれども人は、やりなおせるし、こんなにも清く神性に富む生き方もできる人は素晴しいものだと、川端 康成さんは、

私達読んでいるものに伝えたいのだ思う。
なぜこう書くのかというと川端康成さんの著作には、似たような女性の問題を扱う物語が多々あるからだ。
 この物語を解釈する人に、女性や人の恋愛を茶碗や物に美化または、痴態などの表現の箇所をとらえがちなの
だが、しかしなぜ私は題が千羽鶴と言う題なのかと考えました。

 私はこの物語の千羽鶴の由来は、「三谷菊治は鎌倉円覚寺の茶会で、千羽鶴の風呂敷を持ったゆき子にあった

。それは、ちか子が開催した茶会で、菊治とゆき子の見合いを仕組んだものだった。」
この時、菊治が、後に結婚するゆき子に好きになる理由は、茶碗や茶会などこの物語の父とその間の不純粋な人間
関係は、全て、茶の茶碗、陶器、などが関係してたなか、唯一菊治が感慨を受けたものとして、千羽鶴だけは純粋に

見え、ゆき子が新鮮に感じたのだと思う。
 関係を持つ大田未亡人は、茶の師匠の父と関係があり、文子はその菊治と父を知っている。
だから菊治にとって茶碗陶器には、怨恨の思いまたは、愛欲の念がある。
 この物語では、しかしそんな中でも、大田未亡人の菊治への愛それは、愛におぼれた自分ではなくゆき子のような
純粋な人と結ばれてほしいと罪の中においても、菊治を思う。
人が言う神性の愛への目覚め罪の意識からの死、そして大田の娘も因縁の茶碗を壊したが同じく菊治と過ちを犯しし

かし、その後旅に出て、文子は傷ついて、自殺者の心になって、父の故郷九州大分の竹田に行くが、その前に阿蘇

周辺の高原を一人旅して心が洗われ、ついに飯田高原で回心が起こる。悟りと言っていい。
高原大自然の中から、悟りにちかい境地にいたり、菊治との結婚を棒にふり一人罪にいったん負けはしたが、
真の自分と向き合う大田 文子の悲しみを乗り越え、正しくいきようとする姿を川端は描く。
茶碗に於いては、この物語では壊れた茶碗が描かれている。
志野と唐津いくつかの茶碗、後に、この茶碗が物語でも重要な箇所です。
 因縁の志野の茶碗は大田 文子が壊した。

しかし文子との過ちの後菊治は、罪の自覚もなくむしろ解放されたかのように思えたが、後に文子と破局、千羽鶴のゆ
き子と結婚したあと、不貞になったのちに、割れた茶碗の真の意味、自我の新たな解放に目覚めた文子、割れた茶

碗の真の罪の解放を川端はえがいていたのではと思う。
川端は、人の悲しみや愛が、苦しみを通して、また悔悛に至る希望に似た祈りにも似た思いを千羽鶴に込めていたの
ではないか思います。
この世の悲惨や悲しみ罪の世にありながらも、人はこんなにも輝ける、又清く正しくやり直す心をもてるのだと
罪の中にある。この物語の人物を通して、教えてくれている。
最初に紹介したプラトンは、真理の探究をした人でかれは、イデアについて語っている。
「イデア」とは目に映ったもの・姿・形」を意味する言葉で、この言葉に「真理を見ることのできる理性によってのみ
認識しうる姿」の意味を持たせている。
プラトンによれば、今の現実の世界は、「洞窟の壁に映った影絵」にすぎず、いつも目にしている山、海、人、動物の
中を本物と思うけれど、実は本物がみえていないと言う。
この世の政治的な成功また、金銭を中心とし人を大事にしない競争社会、これらの結果が、戦争、飢餓、姦淫
など、自己中心的で自暴自棄な罪を引き起こす。
人はソクラテスが言う知の愛に目覚める必要性を示唆します。
聖書では、主・イエス様は、私は命であり、道であり真理であるといいます。
 ヨ16:8~10をみると、罪とは主・イエス様を信じないことだといっています。
聖書で神がいう正しい人義人とは、信仰によっていきる人です。
行いの悪い人は神の前に立てないし、悔い改めない人は、神を賛美できません。
しかし、私達主・イエス様を信じ、主・イエス様の十字架をうけいれるならば、私達は永遠の天国に
入れます。
: