トクトル

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トクトルさんの日記

(Web全体に公開)

2011年
01月07日
18:45

三四郎から学ぶこと

私は、何となく自分の町を散策していた。
 
その日は快晴の天気で、ただ風が強く冷たく吹いていた。
 ふと、ある小道に入るとそこには、誰かが飼っているのだろうか?

何匹かの仔猫が私のがきたのをみて、目をパチクリしていた。
 
 この仔猫たちは何をもとめていたのだろうか。食べ物それとも自分の親猫だろうか。
さて、私は、主・イエス様にいのり夏目漱石さんがかいた三四郎という物語から、生きるということとは何か
について、主・イエス様に祈り私なりの導き考えを書こうと思います。

 この物語は、小川 三四郎と言う熊本の田舎育ちの青年が、熊本の高等学校(第五高等学校)を卒業し、大学(

東京帝国大学)に入学するために上京した後の青春物語です。

 彼は、列車の中にいた。そんな中、ある女性と出会うそしてひょんなことから、懇意に

なり、東京へ向かうまえの名古屋までいく列車の中で名古屋についたら宿屋へ案内してく

れと言い出した。


 相手は結婚している女性であり、誘惑もあるが心の清い三四郎は彼女を一人にはせず、

宿屋を何となしに探した結果一緒の宿に泊まってしまう。

 でもこの女は年配の女性であるのにもかかわらず、ことの他無邪気で、無分別のように感じられる。

 三四郎が湯船に気持ちよく使っていると一緒に入ってきたり、夜寝ている場所も蚊やの中で三四郎がはいってくるこ

とを嫌がったり、する様子もないばかりか、最後には、三四郎は「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」
といわれる。
 
 そして彼女と別れ列車で又上京する途中神主のようなひげを濃くはやした教師のような人には会う。

 彼は学識のある方で、思想においてもかなり広い見識を持った方でした。

彼は、この時水蜜桃を三四郎に進め、レオナルド・ダゥィンチが、水蜜桃にひせきを注射

し、その桃を食べた人が

死んだ話や豚の鼻へご馳走を置くと豚の鼻が伸びる一念ほど恐ろしいものは、ないという

はなしをされた。

 この人は、後に三四郎の悪友であり、三四郎にとって迷惑であり、また憎めない存在である。

 佐々木 与次郎の敬愛する先生広田先生でありました。
 この物語では、女性の問題と、若者が抱える恋と愛憎の物語と、明治22年大日本帝国が建国され、日本は西

洋の思想と日本の思想の狭間の中で、西洋から学び独自の新しい日本の思想自由を模索する。

若者達の葛藤が描かれている。


 さて話はもどって、三四郎は、野々宮が妹を見舞ってやるあいだ三四郎に下女と一緒
に泊まってあげていた時その家の近辺で女性の死に会う。

 そして、次に大学の後の三四郎池といわれるようになった池での看護婦との出会いと、学業に従事し真面目に将来

を模索する青年が感じる自分自身に対する心の葛藤と矛盾が
書かれている。

 しかし、三四郎にとって一人の女性との出会いがこの矛盾を凌駕してしまう。
 その存在が里見 美禰子(みねこ)自由放任主義で育った都会の女性で、彼の心を翻弄し、また時にいたずらめい

た感じで彼をとりこにしていく。

 彼女には、中の良い野々宮の妹のよしこといつも仲良しで共にいる。
そんな中の三四郎はみねこに惹かれていくが、よしことみねこの二人が三四郎に惹かれていく。

三四郎はみねこのことが気になってしかたがない。

野々宮さんがみねこと懇意であることも気にしていたようだ。
そんな中運動会や菊を見に行ったり、原口という画家の紹介で絵をみにいったりしていく

うちに二人は懇意になっていく。

そんな中、三四郎はこのみねこについて、この女が偉い精神性のある女性で、時に自分を打ち負かしまた、時にこの

女にはかなわないと思うことがあったようだ。

でもそんなことは彼には気にならない。
 
この物語では、そんな恋愛の中に、人の罪性に対して論じている。乞食に対しての話や、

新聞での殺伐とした事件を取り上げまたまだ幼い子供の死などを通しても彼は傍観者的で

ありまた、上記の広田先生がいった 豚の鼻のように、かれの一念は、恋だけになり、人の苦しみや悲しみに呼応しな

くなっていく、

三四郎の姿とみねこのふたりの姿が書かれている道に迷う二人迷い羊ストレイ・シープこの物語で作者が一番主張し

たいことだと思う。

 そんな中みねこだけは自分もその甘い恋愛の愛の炎に焦がされつつも、自分の問題にき

づいている。
 
おそらくみねこは三四郎と結婚しないことを自分の自尊心や性格上よくしっていた。


 時代は自由民権運動など起こり、人の権利や主張が認められつつある世の中で広田先生や画家の原口達は三

四郎に訓戒的なことを言う。
 
 広田先生には好きな人がいた。その女性は少女の頃に愛した人でしたが、広田先生は結婚しなかった理由はこの

世の中での母の死に対する幻滅からです。
 
この世で子を産み家族をはぐくむと言う人間のかってな信仰に対する思いを夏目さんは、

明治憲法が発足した翌年に母の死を描写することにより、新たなる時代の息吹と対照的な

闇に対する失望からくるこの世に対する
 
 罪の世に対する幻滅によってあらたなる希望を見出せずにその女性と結婚しなかったことによりこの世の死と生との矛

盾を描いている。

また画家の原口は、自分の絵よりも何よりも、みねこにだけ執着する若き青年三四郎に対して絵を描きながらこう諭

します。

 自分の心もみねこの表情もいつもかわる人の心はかわるではどうやって画を書くのか?
それは、その環境がつくるものであり、それは日々の物理的な描写をどう真剣にとらえみるかによると言いたいのだと思う


 
 心を描くのではなく、そのもの事体を正しい場所と環境としぐさで描くが、それは環境によるものだという。

 人の恋愛も罪性も移りゆくものであり、物の根本を捕らえなければ物事は完成しないといいたいのだと思う。
 
 このものがたりでは、ハイドリオタフヒアの末節でこういう箇所を紹介している
「朽ちざる墓に眠り、伝わる事に生き、知らるる名に残り、しからずばそうそうの変(世の中の移り変わりが激しい)
後の世に存と思う事昔より人のおもいなり、この願いかなえる時人は天国にあり。
去れども真なる信仰の教法によりみれば、この願いもこの満足もはかなきものなり。
生きるとは再び我に帰るそれは、願いではなく望みでもない、気高き信者のみたる明白なる事実であるといいます。

 上記の原口の話と重なるところがあります。
最後にこの物語は、みねこは兄の友達と結婚するのですが、その時野々宮の妹も皮肉にもその人と結婚する
候補にあがっていた。

 三四郎とよし子は三四郎がはじめ野々宮の妹を見舞ったのが出会いで、今度はまたまた皮肉にも、運命のいたずら

であろうか?
今度は三四郎が病気の時にこのみねこの話を自分を愛してくれていた女性よしこから聞く。

まるで作者は、自分の事しか考えられず、俗世間のとりこになりつつ若き青

年に対する警告であるかのように。
 
最後この物語には、ハムレットの話もでてくる。

 ハムレットは、父を殺し王になった王の弟に対する復讐物語で、彼は愛す

る人より復讐を選んだ。

聖書ではないがよく神学用語で罪とは的外れといいますが、一貫して夏目漱石さんか゛いいたかったことはストレイ・シ

ープ迷い羊だとおもいます。

 今日は、主・イエス様に私は、この物語を通して、本当の自分とは何か?

 それは聖書の主・イエス様の言葉を見るならばこの箇所だと私は思います。

コリントⅡ:5、15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている

人々が、もはや自分のためではなく、自分のために死んでよみがえったひ

とのために生きるためなのです。

主・イエス様の十字架を信じるならば、罪に惑わされることなく、天国へと導

かれます。
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