主のみことばについて、主が「わたしは良い羊飼いですから、羊のためにいのちを捨てます。」と言われたように伝える訳があります。
原語の辞書には、「置く、立てる、別にしておく、固定する、定める。」などの意味はありますが、捨てるに近い意味は衣服を脱ぐのような意味でしょうか。
英訳では、死んでくださった、与えてくださったの意味が見られます。罪を贖う意味とのつながりが伝わります。
私は、「主がいのちを捨てられたので、あなたも兄弟のためにいのちを捨てなさい。」と言うような伝言を聞いても、理解しがたいものを感じます。
いのち(自分自身のプシュケー)は捨てるものではないからです。もしそうだとすれば、どこに捨てるのでしょう。だれがそれを求めているのでしょう。
犠牲のいのちは、捨てられたものではなく、神の栄光を受けるためのものです。しかも、それは完全な贖いが完了しています。
神によって生まれた兄弟姉妹を見分け、その人たちの間で最善のものを分かち合う交わりが、「捨てる」ことではなく、栄光を現わす重要なものであるとの理解を、深めようではありませんか。
互いの聖なる愛の働きが適切に表現され、理解されるために、御霊の実がいたるところで、ますますあふれますよう。
キリストは、ご自身のことばが、霊であり、いのちであると言われます。
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コメント
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6番~25番を表示
07月25日
17:38
6: tiroru
№4のkiwiさんの伝道者の書を見て、ふと思いました。
獣の霊と、人の霊、共に、全てのものは、ちりから出て、ちりに帰る。
これは、プシュケーの命だろうと思います。
人の子らの霊は、上にのぼり、獣の霊は地の下に降りてゆく。
この人の子らの霊とは、イエス・キリストに似たものとなって行くクリスチャンの霊、プニュ-マでしょう。~~霊的なクリスチャンともいうのかしら?
*肉的なクリスチャンは、どちらに入るのでしょう。?上に上るのか?下に降るのか?
獣の霊と、人の霊について思うことは、愛の種類のように分けて考えるのであろうか?(エロス、ストルゲ、アガペー、etc)
~~聖書の何処かに、「私は愚かで獣ようになりました。」とありましたから、人の霊の中にも獣の霊と同じ仲間に入れて考えられるのもあるようだな~?
動物や家畜の霊といわないで、獣の霊という表現をしているのは、全て人間の事かも知れないな~?と思うと、ぶるっ!となります。
黙想というよりも、少々確信のないこと~~~。
ご迷惑にならなければいいのですが・・・・。m(__)m
07月25日
20:28
7: kiwi
Who knows the spirit of the sons of men, which goes upward, and the spirit of the animal, which goes down to the earth?
<< Ecclesiastes 3:21 >>
英語では、spiritと訳されているようです。
07月25日
20:33
8: kiwi
http://www.mechon-mamre.org/p/pt/pt3103.htm
ヘブライ語と英語の対訳を見つけましたが、
解読できませんでした。
07月25日
20:42
9: kiwi
http://www.septuagint.org/LXX/Ecclesiastes/3
ギリシア語訳を見つけました。
私の推測ですが、
霊という語は、人と獣の区別されていないように感じました。
07月25日
22:00
10: tiroru
プシュケーは、この世に生まれた時の、自然のいのち、
プニューマーは、信仰によって新らしく生れた、新生したいのち、
と表現したらどうでしょう。
07月25日
23:13
11: tiroru
聖霊=神の霊
[英語]・・・・・・・・・ホーリースピリット(神の霊、息)
[へブライ語]・・・・・ル―ハッハ(語源は、風、息を意味する)
[ギリシャ語]・・・・・・プニュマー(霊、風、息)
上記を見つけました。
クリスチャンはキリストの血潮によって聖化されてゆきますから、その霊は、獣と同じではないと思います。
世の常識の霊の区分ではなく、むしろ聖別された霊として聖霊の区分に入るように思います。(聖霊に属するものだから)
07月26日
07:54
12: kiwi
>>11 tiroruさん
コメントありがとうございます。
「だれが知っているだろうか。
人の子らの霊は上に上り、
獣の霊は地の下に降りて行くのを。」
私の推測ですが、ここで「霊」と訳されている二箇所の語は
ヘブライ語でも同じ語が使われているのではないかと思います。
結局、この文章は何を言わんとしているのでしょうか。
人の霊と獣の霊は、死後別のところへ行くと
言っているように思えますが、いずれにせよ
獣にも霊があることを示しているようです。
07月26日
14:17
13: たけ
>>4 kiwiさん
セブチュアギントの伝道者3:21で、人の霊と獣の霊spiritのギリシャ語はプニューマでした。
英語のギリシャ語の辞書でプニューマを調べますと、soulやearthly life supernatural life などが出ています。
07月26日
15:41
14: kiwi
>>13 たけさん
ありがとうございました。
>伝道者3:21で、人の霊と獣の霊spiritのギリシャ語はプニューマでした。
ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。
(伝道者の書 12: 7)
この箇所で示されている「霊」も「プニューマ」ではないかと推測します。
そして、
「だれが知っているだろうか。
人の子らの霊(プニューマ)は上に上り、
獣の霊(プニューマ)は地の下に降りて行くのを。」
この箇所と
「両方とも同じ息(プニューマ)を持っている。
人は何も獣にまさっていない。」
を関連づけると、以下のように理解してよいのではないかと、
私は思います。
「人の子らの霊(プニューマ)も獣の霊(プニューマ)も、これを下さった神に帰る。」
07月26日
22:40
15: tiroru
kiwiさん。
それは違うと思いますよ。人の霊と獣の霊は同じ単語のプニュ-まを使っていても質が違います。
創世記で、人が生きたものとなる時、神の息が吹き込まれました。神が授けた霊です。~~~しかし獣は違います。~~~
伝道者は、社会にはびこる矛盾や不正を見て、神が人に理性と知性を与えているというのに、「人は獣に勝らない」と皮肉を言っているのだ。と思います。
3:18人の子らの霊は、上にのぼり、獣の霊は地にくだる。――誰が知っているというのか。
伝道者は死ということでは人と獣に何の区別も(共に塵に帰る)つけないけれども、その霊の行く先は人と獣は違う事を認めています。(12:7)
12:13 結論として
『事の帰するところは、神を恐れ、その命令を守ること。』
伝道者は無神論者ではなく、懐疑論者でもなかった事が判ります。
決して、神から授かった人の霊と、獣の霊を同じレベルに考えてはいないのです。
少し前進出来るでしょうか?
07月26日
23:06
16: tiroru
たけさんの本題の「いのち」について、
自分のプシュケーは捨てるものではない。~~~云々~~~
平易な表現を試みたらどうでしょう。
世の人と同じ考え方、生きかた、を捨てる==プシュケーのいのちの生き方を捨てる。==兄弟の為に捨てるいのちのこと。
新しいいのちの生きかた、御霊に属する生きかた==ゾーエ(あれ?)プニューマのいのちに生きる。
たけさん。ゾーエは何でしたか? もう忘れました。 ゴメンちゃいm(__)m
『世人の価値観で生きる生き方を捨てて、御霊に属する者の生き方で、兄弟愛に生きる。』―――こんな表現では言い現わせていませんか?
07月27日
00:07
17: kiwi
>>15 tiroruさん
結論を先に述べます。
「人の子らの霊が上に上り、
獣の霊は地の下に降りて行くということは
誰も知らないし、わからない。」
ということだと理解しました。
先ほど、「動物は死んだらどうなる」というテーマで
あるサイトを探した結果、次のようなことが書いてありました。
以下、引用・要約です。
あるキリスト教Q&Aでは、「動物には死後のいのちはない」としている。
つまり、天国に入れない、ということでしょう。
3:21は、確かに人は上(天)に、動物は下(死)に下る、と読める。
しかし、3:20は、「みな同じところに行く」と記されている。
そう考えると、3:21の「だれが知っているだろうか」
という問いかけから始まるこの一文は、肯定文ではなく否定的・懐疑的な
内容であると受け止めることが文脈上可能である。
12:7から「霊的存在である人間は天に帰り、
霊的存在でない動物はちりにもどるのみである。」
という解釈をする人もあるようである。
「動物は霊的存在なのかどうか」ということについて、
人間のみが霊的存在であるとする解釈は、
創世記2:6の人間創造の記事が一つの根拠となる。
しかし、詩篇104:24-30では、
動物らもまた神の息(霊)を吹き込まれた存在であると解釈できる記述もある。
この問題については、聖書全体からの議論が必要となってくる。
また、ローマ8:18-22その他の箇所から、
終末論・救済論の側面からの考察も助けになると思われる。
ただ、伝道者の書3:21を見ると、
「人の子らの霊」と「獣の霊」という記述があるので、
この箇所に限って言えば、
21節の記述は懐疑的な意味に捉えることが文脈上妥当ではないか。
すなわち、人も動物もちりに帰ることを強調する意味での表現である
と思われる。
引用と要約は以上です。
「人の子らの霊が上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くということ」
このことについては、いずれ死後の世界で知ることができると思います。
ただ、動物が全く存在しない世界を私は想像できません。
この続きは、機会があれば述べてみたいと思います。
07月27日
05:11
18: たけ
>>16 tiroruさん
ゾーエーについて知っていることを申し上げますと、Ⅰヨハネの中で、3:16に二回プシュケーがいのちと訳されているだけで、ほかのいのちはすべて「ゾーエー」です。
このいのちは、永遠のいのちと同じいのちで、イエス・キリストのうちにあるもの、神の愛と人の信仰のまじわりの中にあるものと理解しています。
しかし、ヨハネ4:50の「あなたの息子は直っています。」は、「ホ フュイオス ソウ ゼー」(あなたの息子は生きています)とあり、御子の着眼と翻訳者の見方の違いが感じられるように思います。
Ⅰヨハネでは、からだの生きている人について、人が死からいのちに移されることについても論じられているので、信仰の確認とともに、ゾーエーを覚えていることは、私たちには喜びですね。
07月27日
05:18
19: たけ
>>13 たけさん
「英語のギリシャ語の辞書でプニューマを調べますと、soulやearthly life supernatural life などが出ています。」とあるところは、おかしくありませんか。
「プニューマを調べますと」とあるところのプニューマはプシュケーの間違いでした。ごめんなさい。
07月27日
16:58
20: tiroru
たけさん。
プシュケーを調べて、「スーパー・ナチュラル・ライフ」=○○自然のいのち。
これは、№10のコメントに書きましたが、似た表現です。
№10で良かったのじゃないでしょうか?
そんな気がします。
07月28日
05:43
21: たけ
>>20 tiroruさん
スーパナチュラルにくわしいあなたからのコメントをいただきうれしく思います。
その実体と表現を覚えておきます。
07月29日
13:02
22: tiroru
№17の
>>しかし、詩篇104:24-30では、
>>動物らもまた神の息(霊)を吹き込まれた存在であると解釈できる記述>>もある。
これについては大きな疑問です。
詩編104編は、自然の中に神の創造のみ業と、神の支配を見抜いてゆくところに私たちの信仰があるのだとを教えられます。
あなたが彼らの息を取り去られると、彼らは死んでちりに帰る。
あなたが霊を送ると、彼らは造られられる。~~というのは、
神が息を取り去られて死ぬのであり、神が息を送られて新しい生命が生じ、一人の子どもが誕生するのである。
☆それら自然界の全てのことは神の支配のもとにあるという信仰告白であって、全てのものの中に神のみ手というものを見ているのだと思います。
知性も理性も無い動物が、人と同じく神の息(霊)を吹き込まれた存在でしたら大変ですよ。(笑)
『≪神は霊です≫から、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。』
神の霊(神)が、犬や猫にあるなら礼拝の対象を考えねば???(笑)
07月29日
21:43
23: たけ
>>22 tiroruさん
あのⅡペテロ2:16のろばを思い出しました。ものを言ったのは霊があったからでしょうか。
霊の中には、悪霊もあり、黙示録で獣として出ているものも、霊ですから、もし、動物の霊を認めるとしても、被造物の管理支配を委ねられている人の霊とは、随分異なると思います。
そして、人よりは劣った動物の霊が認められる場合、それでも、すべての造られたものは良かったので、現在のぺットブームにつながる人に理解できる良さを保持しているように思われます。
バラムは悪霊につかれて欲望の奴隷になっていましたから、ろばの霊に話してもらわなければならない状態のなさけなさが明らかになります。
悪霊は動物の霊よりもわきまえがないのです。
とすれば、動物の霊について知るのも、悪霊を知る上で決して無意味ではなく、悪霊の劣悪さとさらにそれを拝む欲望礼拝の恥を証明しているものとなります。
本当に、皆様が話しかけてくださるところで、教えていただくことが多くて感謝です。
08月07日
21:12
24: tiroru
№10のこの世に生まれた時の、「自然のいのち」は、=「霊」ですね。
生まれた時の霊で生きるから、自然のいのちと表現しているとも考えられます。
たけさんが折角、見事な結論で締めくくって下さったのに~~、気になりましたので、m(__)m
☆たけさん。kiwiさん。楽しいコイノ二ヤの一時をありがとうございました。
08月08日
10:20
25: たけ
>>24 tiroruさん
ヨハネもパウロもペテロもヤコブも、ところどころ、独特の表現で、真偽の見分け方や悪霊に打ち勝つ方法について、教えていると理解しています。
そのような中で、原語の示していることで気づいたことを知らせていきます。
こちらこそ喜びの完全にされるためのコイノニヤに感謝しています。