主のみことばについて、主が「わたしは良い羊飼いですから、羊のためにいのちを捨てます。」と言われたように伝える訳があります。
原語の辞書には、「置く、立てる、別にしておく、固定する、定める。」などの意味はありますが、捨てるに近い意味は衣服を脱ぐのような意味でしょうか。
英訳では、死んでくださった、与えてくださったの意味が見られます。罪を贖う意味とのつながりが伝わります。
私は、「主がいのちを捨てられたので、あなたも兄弟のためにいのちを捨てなさい。」と言うような伝言を聞いても、理解しがたいものを感じます。
いのち(自分自身のプシュケー)は捨てるものではないからです。もしそうだとすれば、どこに捨てるのでしょう。だれがそれを求めているのでしょう。
犠牲のいのちは、捨てられたものではなく、神の栄光を受けるためのものです。しかも、それは完全な贖いが完了しています。
神によって生まれた兄弟姉妹を見分け、その人たちの間で最善のものを分かち合う交わりが、「捨てる」ことではなく、栄光を現わす重要なものであるとの理解を、深めようではありませんか。
互いの聖なる愛の働きが適切に表現され、理解されるために、御霊の実がいたるところで、ますますあふれますよう。
キリストは、ご自身のことばが、霊であり、いのちであると言われます。
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コメント
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05月13日
20:18
1: tiroru
アーメン。
御霊の実がいたるところで溢れているのを見ることが出来ますように。
喜ばしいです。感謝、感謝。
09月18日
16:35
2: tiroru
ところで、「プシュケー」と「プニューマー」=(動物にはない霊?)についてたけさんは、どう解釈なさいますか?確信を持てるように説明して頂きたいのですが・・・。ご面倒をかけます。
09月21日
06:44
3: たけ
>>2 tiroruさん
主が自分のいのちを与えますといわれたとき、そのいのちはプシュケーでした。主は、ご自身の心が騒ぐと言われたところでも、ブシュケーが騒ぐと言われています。
プシュケーは、自分自身の真実・本心・いのちと言っても違和感のないものであると理解しています。
プニューマは、悪霊、聖霊、人の霊の意味をも含む広い意味の語で、心(プニューマ)の貧しい人は幸いです、と言われているところでは、神からプニューマを与えられて生きている人の本質について言及されていると思います。
07月25日
10:15
4: kiwi
>>3 たけさん
人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。
これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。
人は何も獣にまさっていない。
みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、
すべてのものはちりに帰る。だれが知っているだろうか。
人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。
(伝道者の書 3:18)
原語では獣の霊は何と書かれているのでしょうか。
または、ギリシア語ではどう訳されているのでしょうか。
人の霊と区別されているのでしょうか。
獣には家畜も含まれていますか。
07月25日
16:52
5: tiroru
何だかわかるように思います。
一粒の麦が死ななければ~~~プシュケーで蒔かれて、プニュ-マで実を結ぶ。
~~~植物に例えられているところが多いです。