クルミンシタさんの日記

(Web全体に公開)

2008年
01月30日
14:02

教皇ベネディクト十六世の57回目の一般謁見演説  -ヤコブのこと。-

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/newpope/bene_mess...

6月28日(水)午前10時から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の57回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の13回目として、「小ヤコブ」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、使徒言行録15章13-14、19-20節が朗読されました。謁見には40,000人の信者が参加しました。
―――


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
わたしは先週の水曜日にゼベダイの子の「大」ヤコブについてお話ししました。
福音書の中には、この「大」ヤコブのほかに、「小」ヤコブと呼ばれる、もう一人のヤコブが登場します。この「小ヤコブ」も、イエス自らが選んだ十二使徒の一人です。
また「小ヤコブ」は常に「アルファイの子」として示されます(マタイ10・3、マルコ3・18、ルカ6・15、使徒言行録1・13参照)。

小ヤコブ」はしばしば、マリアの子(マルコ15・40参照)で、やはり「小ヤコブ」(同参照)と呼ばれる、もう一人のヤコブと同一人物だとされます。
この小ヤコブの母マリアは、第四福音書によれば、イエスの母とともに十字架のそばにいたクロパの妻マリアである可能性があります(ヨハネ19・25参照)。
小ヤコブもナザレの出身で、おそらくイエスの親類でした(マタイ13・55、マルコ6・3参照)。イエスはセム語的表現法で彼の「兄弟」と呼ばれています(マルコ6・3、ガラテヤ1・19参照)。

使徒言行録は、この小ヤコブがエルサレム教会で特別な役割を果たしたことを強調します。大ヤコブの死後まもなくエルサレムで開かれた使徒会議で、小ヤコブは他の人びととともに、割礼を授けることを前提とせずに異邦人を教会に受け入れることができると主張しました(使徒言行録15・13参照)。
聖パウロは、復活した主が小ヤコブに特別に現れたといいます(一コリント15・7参照)。
聖パウロは、エルサレムを訪問した際に、ケファ=ペトロより先に直接ヤコブの名を挙げて、ヤコブがケファとともに教会の「柱」だと述べています(ガラテヤ2・9参照)。

後にユダヤ人キリスト者は、ヤコブを自分たちの基準と考えました。
ヤコブの名がつけられて、新約聖書正典に収められた手紙も、ヤコブの著作とされました。
ヤコブの手紙の著者は自分を「主の兄弟」とはいわず、「神と主イエス・キリストのしもべ」(ヤコブ1・1)だと述べています。

アルファイの子ヤコブと「主の兄弟」ヤコブという、この同じ名前をもつ二人の人が同一人物であるかどうかという問題について、研究者の間には議論があります。
福音書の伝承は、いずれのヤコブについても、イエスが地上で生涯を送った時期と関連する記事を残していません。
それに対して、すでに指摘したように、使徒言行録は、イエスの復活の後、「ヤコブ」が初代教会の中で大きな役割を果たしたことを示しています(使徒言行録12・17、15・13-21、21・18参照)。

ヤコブが行ったもっとも重要な行動は、むずかしい関係にあったユダヤ人出身のキリスト者と異邦人出身のキリスト者を、彼が仲裁したことです。
こうしてヤコブは、ペトロとともに、キリスト教が本来もっていたユダヤ教的性格と、キリスト者となった異邦人にモーセの律法のすべての規定を守る義務を課す必要はないことの間の溝を、乗り越えました。
もっと適切な言い方をすれば、彼はそれらを一つにまとめたのです。

使徒言行録は、まさにヤコブによって提案され、会議に出席したすべての使徒によって受け入れられた妥協案を記録に残しています。
ヤコブによれば、イエス・キリストを信じる異邦人は、神々に犠牲としてささげられた動物の肉を食べる偶像崇拝的な習慣や、「みだらな行い」を避けることだけを求められるべきです。「みだらな行い」ということばは、おそらく同意なしに行われる結婚をさしています。実際上、それは、モーセの律法できわめて重大と考えられたわずかな禁止規定だけを守ればよいことを意味しました。

このようにして、相補い合う二つの重要な帰結がもたらされました。この二つの帰結はともに今でも有効です。
第一に、キリスト教とユダヤ教を結ぶ、切り離しえない関係が、永遠に有効な生きた基盤として認められました。
第二に、異邦人出身のキリスト者は、それぞれの社会的アイデンティティを保持してよいことになりました。
いわゆるモーセの「祭儀規定」を守ることを強制されたなら、彼らはこうしたアイデンティティを失うことになったことでしょう。しかし、こうした「祭儀規定」は、キリスト者となった異邦人にとって義務と考えられなくなりました。
要するに、尊重と遵守を相補いながら実践することが始まったのです。こうした実践は、後に不幸な誤解が行われたとはいえ、本来、尊重と遵守の性格をともに守ることをめざしていました。

ヤコブの死に関する最古の情報は、ユダヤ人の歴史家フラウィウス・ヨセフスによって伝えられています。
1世紀末にローマで書かれた『ユダヤ古代誌』(第20巻201以下)の中で、ヨセフスは、ヤコブの死が大祭司アナノスの不当な主導権によって決定されたと述べています。アナノスは、福音書に出てくるアンナスの子です。
アナノスは、ローマ総督(フェストゥス)の罷免と次の総督(アルビヌス)の着任の間の、62年に、ヤコブを石打ちの刑に定めました。

ヤコブの名は、外典の『ヤコブ原福音書』――この書はイエスの母マリアの聖性と処女性をたたえています――に加えて、ヤコブの名がつけられた手紙と特に関連づけられます。
ヤコブの手紙は、新約聖書正典の中で、いわゆる公同書簡の最初の位置を占めています。公同書簡とは、一つの特定の教会――たとえばローマやエフェソなど――に宛てて書かれたのでなく、多くの教会に宛てて書かれた書簡のことです。ヤコブの手紙はとても大事な文書です。
それは、信仰をただことばや観念による宣言にとどめるだけでなく、よいわざによって具体的に表さなければならないことを、強く強調しているからです。
何よりもヤコブは、いつも喜んで試練を受け入れ、神が知恵のたまものを与えてくださるように信頼をもって祈るようにと、わたしたちを招きます。こ
の知恵によって、わたしたちは、人生の真の意味が、はかない富にはなく、自分の食べ物を貧しい人や困っている人に分け与えることにあるのだと知ることができます(ヤコブ1・27参照)。

こうしてヤコブの手紙は、きわめて具体的で実践的なキリスト教をわたしたちに示します。
信仰は生き方によって、何よりも隣人愛によって、また特に貧しい人への献身によって実践されます。
このことを念頭に置いて、次の有名なことばを読まなければなりません。「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです」(ヤコブ2・26)。
このヤコブのことばは、パウロの主張と対比されることがあります。パウロによれば、わたしたちが神によって義とされるのは、わたしたちの行いによるのでなく、信仰によります(ガラテヤ2・16、ローマ3・28参照)。

この二つのことばは、観点の違いによって矛盾しているように見えます。しかしながら、よくその意味を考えれば、それらは実際には相補い合います。
聖パウロは、わたしたちに先立つ神の愛など必要ないと考えるような、人の思い上がりに反対します。パウロは、ただ無償で与えられる恵みなしに、自らを義とするような思い上がりに反対したのです。
これに対して、聖ヤコブは、信仰から当然生まれる結果としての行いについて語ります。「すべて良い木は良い実を結ぶ」(マタイ7・17)。ヤコブもまた、そのことをあらためてわたしたちに述べているのです。

最後に、ヤコブの手紙はわたしたちに、何をするときにも、いつも次のように唱えながら、神の手に自分を委ねるように勧めます。「主の御心であれば」(ヤコブ4・15)。このようにしてヤコブは、自分の力で、自分のことだけ考えて人生の計画を立てるのでなく、計り知れない神の御心のために場所をあけることをわたしたちに教えます。わたしたちにとって真によいことを知っておられるのは神だからです。
聖ヤコブは、いつもわたしたち皆の助けとなってくれる師なのです。
(カトリック中央協議会 司教協議会秘書室研究企画訳)
(2006.6.29)

コメント

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5番~24番を表示

2008年
01月30日
22:24

すべての心を所有なさるにふさわしい愛のみ心、純潔の愛の炎でいつも燃えているみ心、焼き尽くす炎、私を焼き尽くし愛と恵みの新しい生命を与えてください。

2008年
01月30日
22:35

人々の避難所として開かれているみ心、私を受け入れてください。
十字架上で世の罪のために苦しまれたみ心、真心から自分の罪を痛悔させてください。
主はカルワリオで私たちのために御死去になる時と同じ愛情を、この秘跡においても抱いておられ、私を御自分と全く一致させたいと激しく望んでおられる。
主の愛とお望みに、自分を全く主にゆだねずにおられようか。
最愛のイエズス、主の功徳によって私を傷つけ、縛り、しめつけて、み心に全く一致させてください。
私はきょう、主の恵みによって、人目をはばかる心や、好み、嫌悪、自分の楽しみ、便利さなどすべて、主を完全にお喜ばせするのを妨げる可能性のあるものを足で踏みにじり、力の限りみ心にかなうようにしようと決心しました。
今から私がするすべてのわざ、感情、愛情を全く主の意志に一致させてこの決心を実行しますように。
私の心から神の愛以外の愛を全部追い出してください。

2008年
01月30日
22:39

私の希望であるマリア、あなたは神のみもとで何でもおできになるかたですから、死に至るまで、イエズスの純粋な愛に忠実に仕える恵みをいただいてください。
アーメン。
この世でも永遠にもそうなりますように。

(射祷)だれが私をキリストの愛から引き離すことができよう。
(霊的聖体訪問)

2008年
01月30日
22:43

聖母訪問

「神の母の愛には力があり、慈しみ深く、愛情深く同情して救う力をもっている」

清い元后は力に富み慈しみ豊かですべての者を救うことができ、それを望んでおられるから、今もいつも
「聖母よ、闘う私を守り、よろめく私を支えてください」
と祈ろう。

2008年
01月30日
22:47

死ぬまでにはまだまだ何と多くの誘惑を乗り越えなければならないことだろう。
私の希望、避難所、とりでであるマリア、神の恵みを失わせないでください。
誘惑のときにはいつもすぐ、つぎの射祷を唱えて聖母のもとにかけよりますように。

(射祷)助けてください、マリア、助けてください。

2008年
01月30日
22:53

SoranosiTap's めも。

聖アルフォンソ著「聖体訪問と聖母訪問」・レデンプトール会
p13~14

自分の希望の源はすべてマリアにあるというほどであった聖ベルナルドは
「恵みを願おう。マリアを通して願おう」
と言い、
他の聖人も
「マリアの取り次ぎなしに恵みを願うのは、翼なしに飛ぼうとするのと同じで何も得られない」と言っている。

2008年
01月30日
22:56

[marquee=left]SoranosiTap's オカリーナ仲間募集中
あるいは、もしくは、オカリーナ仲間募集中の人を募集中☆

2008年
01月30日
23:03

今日の神父さま。
主の祈りのとき、一度、みんなをとめて、声を合わせて祈るようにさせました。

天におられる私たちの父よ・・

2008年
01月30日
23:14

今日の福音朗読

マルコによる福音書 / 4章 1節~20節

イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。

イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。

「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。

蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。

ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。

しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。

ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。

また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」

そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

2008年
01月30日
23:15

イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。

そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。

それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」

2008年
01月30日
23:16

また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。

種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。

道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。

石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、

自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。

また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、

この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。

良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」

2008年
01月30日
23:38

聖母マリアに対する祈り
聖アルフォンソ著「聖体訪問と聖母訪問」・レデンプトール会
p20~21

無原罪の聖なるおとめマリア、すべての人の中で最もあわれな私はきょう、主の母、人類の元后、代願者、希望、罪人のよりどころのもとにはせよります。
偉大な元后をあがめ、今までいただいた多くの恵み、特に私が自分の罪によっていく度も落ちるはずであった地獄から助けてくださったことを感謝いたします。
優しい母、あなたを愛し、いつまでもあなたに仕え、あなたが他の人々から愛されるようできる限り努めると約束します。
希望も救霊もすべて聖母にゆだねます。
あわれみの母、私をあなたのしもべとして受けて、マントの下に入れてください。
神のみ前に力ある方、すべての誘惑から解放してください。
また死にいたるまで打ち勝つ力をください。
イエズス・キリストへの真の愛を与えてください。
あなたによってよい死を遂げられますように。
私の母、あなたの神への愛によってお願いします。
いつも、特に臨終のとき、私を助けてください。
私が天国で聖母を賛美し、永遠に聖母のあわれみを歌うのを見るまで、いつも見守ってください。
アーメン。

2008年
01月31日
06:34

昨日、書き忘れていた

SoranosiTap'sめも

オルガンなど、どぅ~る~る~る~
オカリナ、      ピピピピピポパポピピピピ

かなり、バッハ、フーガ。

朝の梢のさえずり。小鳥。踊り。
ピポパポピピピピ

2008年
01月31日
06:36

大正琴は、

やはりフーガのようでもあり、
ハモるときもあり、

音色のあるカスタネットのようでもあります。

2008年
01月31日
06:52

「聖母マリアへのまことの信心」聖グレニョンド・モンフォール著 山下房三郎(トラピスト会司祭)訳 愛心館 より。
p219~p220

ヤコブは、母を愛し尊敬しています。
だから、しじゅう家に、母のそばにいるのです。
母の顔をながめるときが、いちばんしあわせです。
すべて母の気に入らないことはしないように、また母の気にいることなら何でもしようと努力しています。
それを見て母レベッカも、ますますヤコブをいつくしみ、愛するようになるのです。

2008年
01月31日
06:59

ヤコブは、あらゆる点で、愛する母の望みどおりになっています。
母のいいつけにはすべて従っています。
それも、ぐずぐずせず迅速に、ブツブツ言わず心から従っています。
母がちょっと望みをあらわすと、すぐさま、それを実行します。
母のいうことは何でも本当だと、理屈なしに信じています。
そんなわけで、父イザアクの口に合うように料理したいから、二ヒキの子ヤギをもっていらっしゃい、と母に言われたとき、ヤコブは母にタッタひとりの人が一度だけ食べるのですから、子ヤギは一ピキで十分ではないでしょうか、などと口答えをしません。
ヤコブは、母に言われたとおりにするのです――ぜんぜん理屈なしに。

2008年
01月31日
07:05

ヤコブはたいへん母を信用しています。
自分の才能や、ウデにはぜんぜん信用していないからです。
母からの配慮と保護を、唯一のよりどころとしているのです。
必要なものはなんでも、母に願っています。
どうしていいか分からないときには、いつも母に相談しています。
たとえば、そういう大それたことをしたら、祝福のかわりにノロイを受けるのではないでしょうか、と母にたずねたとき、母が、
「子よ、あなたが受けるノロイは、わたしが引き受けます」
と答えると、かれは母のことばをそのまま信じ、安心して母にすべてをまかせるのです。

2008年
01月31日
07:15

148~p150

前にも申しましたように、この信心はまさしく、洗礼のちかい、洗礼の約束の完全な更新といっても、さしつかえないのです。
キリスト者はすべて、洗礼を受ける前には、悪魔のドレイでした。
悪魔に隷属していたからです。
しかし、洗礼のとき、自分じしんの口でか、または代父・代母の口をかりて、公式に、悪魔と、その栄華と、そのわざを捨て、以後はイエズス・キリストを、自分の主、自分の神とすることを、そうごんにちかったのです。
これからは愛のドレイとして、イエズス・キリストの隷属し、仕えることを、おごそかに約束したのです。

2008年
01月31日
07:22

それはまさしく、この信心がすることとまったく同じものです。
この信心によって、(奉献文にしるされているように)わたしたちは、
悪魔と、世俗と、罪と、自分自身を捨て、
マリアのみ手をとおして自分自身をまったく、イエズス・キリストにささげ尽すのです。
そのうえ、この信心にはプラス・アルファがついています。
洗礼者は通常、ほかの人の口、つまり代父、代母の口をかりて神に申し上げ、
こうして、ほかの人を代理人に使って、自分自身をイエズス・キリストにささげます。
しかし、この信心では、自分自身が自発的に、しかも事がらの内容を十分わきまえた上で、それをするのです。

2008年
01月31日
07:28

洗礼のとき、受洗者は、マリアのみ手をとおして、という明白な表現を使って、自分自身をイエズス・キリストにささげるのではありません。
また、自分の善行の価値を、イエズス・キリストにささげ尽くすのでもありません。
洗礼のあと、それを、好きな人に流通しようと、自分自身のためにたくわえておこうと、まったく本人の自由なのです。
だが、この信心では、ハッキリした表現を使って、自分を、マリアのみ手をとおして、イエズス・キリストにささげ、そのうえ、自分のすべての善行の価値までも、イエズス・キリストにささげ尽くすのです。

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