トクトル

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トクトルさんの日記

(Web全体に公開)

2010年
05月10日
23:01

真に生きるということとは

5月に入り、段々暖かくなってきた。

今まで肌寒かったのがうそのようだ。

私の庭には、ツツジがあるのだが、今満開です。

休みは、伊豆の温泉で休養した。

さて私は、志賀直哉さんが書いた城の先にてという短編小説と

私の家族といった映画カールじいさんの空飛ぶ家の物語から、

生きるということ、愛すると言うことについて、主・イエスから導き

を頂いた。

志賀は或るとき、山の手線の電車にはねられて怪我をする。

その後養生に一人で但馬の国=兵庫県豊岡市にある有名で歴史がある温泉地に

出掛けた。

後遺症で脊椎カリエスになれば致命傷になりかねない。

心配し意志にみてもらう。

 医者の話しでは、2年から3年くらい症状がでなければ、大丈夫だと

言われた。

とにかく用心に越したことはないので、この温泉地に体を癒しに来た。

頭は未だはっきりとしない、物忘れが激しくなってしまった。

しかしその反面、かれの心は近年になく静まっていたのは、稲の獲りいれ

の始まるころで気候がよかったからだったといいます。

一人きりで誰もいない静寂、ぼんやりと椅子に腰かけ、山の往来をみたり

散歩し、夕方にはまた散歩をし寂しい秋の山峡を小さい清い流れ

についていきながら、彼は自然の中で、生と死について、考えていたの

だと思う。

一歩間違えば、青山の土の下にいた自分、志賀は自分の死を克明に描写

している。

不思議なことに、彼には、死への親しみさえも感じていたのだそうです。

そんな中彼は、家の近くま蜂に興味を示す。

蜂は天気さえよければ、朝から暮れ近くまで、毎日いそがしそうに働いて

いた。

ある朝、一匹の蜂が死んでいるのを志賀はみる。

足を腹の下にピッタリとくっつけ、触覚はだらしなく顔へたれ下がっていた。

他の蜂はその蜂に冷淡であったが、いかにも生きているという感じがした。

その死んだ蜂が誰にも相手にされずに3日ほどそのままになっているのを

みて志賀は寂しく感じたのだと言う。

志賀は、いつのまにか、生きることから、死ぬと言うことに対しての描写

を模索しはじめてしまう。

彼は、はんの犯罪という小説を書いたことがあると言う。

はんという支那人が自分の友と妻の関係に嫉妬し殺すものがたりであったが、

志賀は今度は殺されて墓の下にいる妻の立場で小説を書きたいのだといって

いる。

彼のしていることを皆さんはどう思われるでしょうか。

気づいたかたもおられるとおもいますが、彼は、静かさからくる自然や森羅万象

を見て、静かで平穏な人生、死というものに対しての美化を求めていたのであります。

そしてその後、主人公の志賀は、2度の死を見る。

1.はねずみの死、2.はイモリの死です。

1の死は、残酷な死でした。動物は死ぬ事を知らない。生きることしか、

もがく動物の姿を見て、彼は、何とか生きることをあせって模索し始める。

致命的なものかどうか。

でも友からそうでないと言われ、彼は、安心したのだと言う。


これらの心の葛藤があり今度はイモリの死を見る。

自分が偶然投げた石が、イモリに当たってしまったのだ。

とんだことをしたと思いつつ、彼は、生きることは死ぬことと隣り合わせ

であり、生と死が隣り合わせであり、その背景に漠然と罪を知ったのだと思う。

彼に足りなかったものは、何だったのか?

私は思います。正しい生き方、新しい出会い、そして生きるということの意味

ではないかと思うのです。

私は、前に家族でカールおじさんの空飛ぶ家の映画をみました。

主人公のカールは幼い頃から一緒で結婚した妻と幸せに暮らし、ふたり

は飛行船で世界中を飛び回る冒険家のチャールズ・マンツにあこがれていた。


しかし妻は死に、夢も果たさず静かに生きているが、彼は妻との夢を実現させる

ために風船で旅立つ、その中友だちができ、その友が捕まった時に自分の大事なもの

について気づく、それは、過去の思い出ではなく、今の友や仲間であることに。

この物語から私が主・イエスから教わった事は、私達の正しい生き方とは、神の国と神の義を求め

ることであり。

主・イエス様の十字架に対する私達の愛と希望が常にあることの大切さを

まなびました。

この世の存在意義それは、主・イエス様の十字架により、皆さんがすべての人が

主・イエス様の天国へはいること、救われることです。

主・イエスは待っています。世の始まりの頃から私達をずっと見守っていて

くれています。
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