今日は、とてもいい天気でした。
そろそろ紅葉してきている木もあります。
食欲の秋読書の秋といいますが、私は、読書をしてます。
さて、今日は、主・いえす様のいのり、信徒としての心がまえ
について書こうとおもいます。
私達の創造主、である主・イエスは私達の罪をあがなうため
にモツ薬を拒むほどに私達を真に愛して十字架にかかって
くださいました。
だから喜んでください。
信じるものには永遠の命がやどっています。
しかし私達は、父である主・イエス様から、聖書をもらって
います。
そしてその聖書では、神を恐れよと何回も出てきます。
神は、愛ですから、私達を心配してくださっているのです。
新約の例え話にしても愚かな花嫁のたとえにしても、心の種
の話にしても、自分が神の掟を守らないでいるならば、どうな
るのかという教えが目立ちます。
コリント第一13で愛に対してかかれています。
しかし、愛することの裏返しは憎むことでもあります。
神は愛の神であると同時にねたむ神であり、厳しい裁き主
でもあるのです。
罪をおかしたものを罰する・・。
たとえ100000人の人を愛せても、一人の罪びとを赦せな
いのならば、その人の罪も残るわけです。
だからこそ、私達クリスチャンは、絶えず、罪を犯さないよう
にいのり、賛美し、聖書を読みます。
聖書には、神の愛や神の意思または、人の罪や律法があり、
この世の罪の価値観と違うものです。
人の世では、正しいとされることでも、神の前には、罪で
あることもありえるのです。
だから聖書を私達は、よく読まなければいけません。
神が私達を愛してくださっているからこそ
私達は、聖書の学び、神を愛そう=知ろうとします。
また教会で、何か質問されると、牧師に聞いてくださいという
人がいます。
教会によっては、戒めあうことと、教会で物事を教えること
とを混同し勘違いする人もいます。
でも、聖書では、教師はキリスト一人であるといいます。
では、どうしたならばよいのか。
聖書では2人3人のいるところに私もいるのだといいます。
主にたずね求める門をたたくことを主はもとめます。
もし私達が、聖書を理解し、真の救いの知識に到達してる
ならば、もうこの地上にはいません。
エノクのように、天へあげられているはずだから。
だから主・イエスは、姦淫の罪を犯した女に石を投げる前に
罪を犯したことのないひとから投げなさいといいました。
そのとき、年をとったひとから去っていったとあります。
これは、私たちがいかに神を恐れて生きなければならないの
かを示します。
そして救われたものは、こうよばれます。ヨ黙示録1:6また私たちを王国とし、
ご自分の父である神の為に祭司としてくださった方であるキリストに栄光と力が
とこしえにあるようにアーメン。
主の十字架を信じたものは、救われたものとして、神の祭司としてもちいてくださり
、この地上は、神の福音でみたされます。