クルミンシタさんの日記

(Web全体に公開)

2007年
12月18日
17:25

はじめて教会に行ったことについて。

ある方の日記へのコメントとして書いたものでしたが、自分の書いたものの整理整頓的に、こっちにも☆
****

小さい頃から神さまはいると普通に思っていました。
が、このことが絶対的に普通であるというわけではないということがわかったことがありました。
とても身近な人の1人が、どの程度かはわかりませんが、無神論者でした。
その人はとても身近な人で、仲も、普通に喧嘩するぐらいで、仲はいいです。
あるとき、ハードな喧嘩をしたときに彼が無神論者であることが判明しました。
子どものときから一緒に遊んでいた人です。なんとなく、いろいろ考えることあります。
仲はいいですし、私の信仰を尊重してくれますし、自分はそうじゃないけど、羨ましいとか言います。

話はかわりますが、
私、地獄というものを痛切に感じた、初めてのときは、幼稚園くらいの年のときでした。
家の庭で、水槽かなにかにカブトムシの幼虫を5、6匹飼っていて、
ある日、その日はどんな精神状態だったのか、
焼き鳥の串のようなので、全匹、グサグサにしたのでした。
直後、カーっと真っ赤な思いになって、
(これでもう、ボクは天国に行けない・・)
と思いました。

話の筋に合わないコメント書いてしまってごめんなさい。
でも、間接的に、このことを思い出したので書かせていただきました。

はじめてキリスト教に触れたのは…

よくわかりません。
18歳のときに新約聖書を買いました。
入った大学は仏教学部仏教学科でした。漠然と、坊さんになりたいと思ってたんです。
本棚には両端の一番いいところに、法華経と新約聖書がいつも並べてありました。

子どもの頃からのキャラクターで言うと、キリスト教とか、クリスマスとか、歌を歌ったりとか、
同級生とかからしたら、ありえないほうのタイプだと思います。

教会に行ったきっかけは、いろんなことがあると思いますが、
私の場合、一点、はっきり、こう思っていました。

聖書とか読んでいましたが、むしろ、今より読んでいたくらいでしたが、(ヨブ記とか、ノートに書き写していたりとかしてましたね)、
教会に行かないと、0コンマ1ミリまで近づいたとしても、いつまでたっても関係ない、と思ったからです。

そんなこと考えたりもしていて、半年くらいしたある日、行きました。

神父さんの第一声は
「神は愛です」でした。

あとは何を話したか全然覚えてないくらいですが、家に帰って、妹が
「お兄さんのあんな顔ひさしぶりにみた」と言っていました。

それからは、根本的に、いつも幸せです。

コメント

2007年
12月18日
18:13

1: -

日記へのコメントありがとうございました。
ものすごく興味深かったので、何度も何度も読み直させていただきました。

この日記のタイトルは、キャンドルズのみなさんに聞いてみたいな~って思います。


日本はよろずの神様がいて、ギリシャ神話にも似てると思うんですが
お米一粒の中にも、トイレにもそれぞれに神様がいると思ってる人種が多いでしょう?
その中で無神論者になるって、それはそれですごいなー。。。

2007年
12月18日
21:15

そちらに書いたのと同じのをこっちにも書いていること申し訳ないですが、
*****

はい。受験勉強する時期に一分もそれやらないで、いわゆる哲学の本等を一日二冊平均で読んでいました。何回も読んだ本はまた別ですが。
何回も読んでいた本は、プラトンとか、ジャン・ジャック・ルソーとかショーペンハウアーとか、キルケゴールとか、西田幾多郎(←字、違ったかもしれません)とか、どちらかというと文学ですが、ヘルマン・ヘッセとかです。
大学に入ったとき尊敬する人物の欄に私、西郷隆盛とショーペンハウアーと書いていて、入学したばかりのオリエンテーションかなんかのときに先生(教授とかでしょうか)にその二人の組み合わせがおもしろいと言われて、この二人はどういう関係があるのですかと聞かれ、関係ないと思います、とか答えていました。
私が何度も読んでいたほうの人たちは、だいたいが「実存主義」と分類されている人たちです。
私にとって、仏教も、だいたい同じだったんだと思います。
ちなみに、元ユニコーンの奥田民生もです。
私のなかではヘルマン・ヘッセより凄いということになっています。
仏教の一番の経典は法華経なわけですが、これが、私的には、同じように、
はるかにめっちゃ凄いわけです。

仏教には葬式とかのイメージがあると思います。
でも、ほんとは、葬式と仏教は関係ないんです(たぶん)。おシャカさま本人が興味持ってないくらいです。
なんというか、地域的に、死後のこと的に、葬式というものとセットになってきただけなんだと思います。あるいは経済的に。

私、例のごとく、あんまり授業に出ない学生でしたが、結構、ちゃんと毎日、大学に通学していました。
駒沢大学という、偏差値的には微妙な大学ですが、仏教関係の大学としては最高のほうなので、図書館が充実していました。
お経のすべてのことを「大蔵経」と言います(たぶん)。の日本語訳が揃ってあったりするわけです。私、めっちゃ読んでました。華厳経が好きでしたね。

お経。
漢字のイメージ、ないです。
どちらかというと、もちろん違いますが、数式のほうに近いです。

2007年
12月18日
21:16

サンスクリット語とかが原語なわけです。
「色即是空」で有名な般若心経。最後のほうの何行かはただの音訳です。
ギャーテーギャーテーボージーソワカー

私、仏教、もしかしたらかなり勉強したほうではあるかもしれません。
親鸞が好きでしたね。「教行信証」とか、かなりちゃんと読んでましたね。
「妙好人」とか、そういう人たちが好きでした。「佐市さん」とか。
わらじだったか下駄を作っていた人で、阿弥陀仏にですが、単純素朴明快な信仰を寄せていた人です。

書き出すときりがないくらいです。

現実的には中退しましたので、仏教のほうのエスカレート的な進路はなくなっていました。
もし、ある意味、ちゃんとしていれば、
今、こうしてクリスチャンになっていなかったかもしれなくて、
ラッキー! です。

アシジの聖フランシスコは動物大好きだったみたいです。(私、洗礼名がそのフランシスコなんです)。
クリスマスの日に動物を、食用でも殺さないようにと、国王か誰かにお願いしてみたりもしたというエピソードをなにかで読んだことがあります。
クリスマス。
イエズスの誕生のところには牛やロバや・・・・ 詳しくは知りませんが、動物たちがいました。
今、私、読んでいるマリア・ワルトルターという人の本によると、まず、牛が鳴いたみたいです。で、ロバが、その声に押される感じで鳴きます。
私、読んでて思ったのは、(私、ロバに自己投影する傾向があるのですが)、
ロバ、そのキャラクターに似合わず、
もう、なんか、こう、、全世界の動物にむけて、
「みんな! 賛美!」
とか大声出してみちゃった、みたいな感じで、
ロバーーー! です。

すいません(笑)

これからレンタルビデオ屋に「ロッキー・ザ・ファイナル」を返却して、映画の「スーダラ節」を借りてこようと思っています。

むりくり関連付けると、植木等、たしか、坊さんの息子ですね。

2007年
12月18日
21:38

妙好人。
検索してみたら、「佐市さん」ではなくて、「才市」さんでしたね。
ほかに、「源左さん」という人もいて、それと混じって間違えたんだと思います。わらじとか下駄とかが生業だったのも、どっちだったか、もしかしたらもた別の人だったか、
「妙好人」で検索すればいろいろわかると思います。興味ある方はどうぞ☆
クリスチャンではありませんが、ナイスな人たちです。

もう一つ、思い出したこと。
禅の開祖は達磨(ダルマ)さんですが、たしか5代目(だったと思います。全然違ったかもはしれません)のなんだっだかさんの言葉もステキです。

「からりと晴れてなにもない」

とかです。

*****
キリスト教と仏教は違います。

「からりと晴れてなにもない」
なんて言ってるおっさんがいたら友達になれそうです。
で、
「さて・・

 どうしよう。。」

ですかね☆

2007年
12月18日
21:50

妙好人について。

妙好人(みょうこうにん)とは浄土宗、特に浄土真宗に見られる
市井の人で阿弥陀仏の本願に目覚め、救われた人を言います。
煩悩の世に咲いた蓮の花のように心が美しく好ましい人の意。
まさに試練を経て阿弥陀仏によって再生した人々。
そこには信仰者が試練の果てにたどり着く共通の平安の境地が現出しています。
それはキリスト者にとっても大いなる目標となるでしょう。

と書いてあるページがありましたので、そのアドレスです。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~shinju/myokonin.htm

2007年
12月19日
21:47

これも、masaさんの日記へのコメントですが、追加。
****

阿弥陀さまというのは、像のことではありません。もちろん、像もあります。釈迦三尊像とか、阿弥陀三尊像とか、そういう、セットみたいな像がよくあるわけです。阿弥陀三尊像の三体の像の真ん中が阿弥陀さまで、右か左かが観音さまだったと思います。なんにも調べたり検索したりしてませんので、全然違うかもしれません。
阿弥陀さまは、バリバリ仏教です。
権現さまというのは仏が神の姿を借りて現れたもの、というふうに読んだのですが、仏教に神はいたっけ・・・?
権現さまについては私よりmasaさんのほうが読んだことあるようです。たぶん、仏が神の姿を借りて現れたもの、ということなのでしょう。仏教に神はいたっけ・・・? 神々はいます。岩波文庫から出てる仏典の本にも「シャカ 神々との対話」とかなんだったか、そんな題名のさえあったと思います。「神々」とかなのかもしれません。
なんにも調べ直したりしないで、テキトーに書いてしまっていること、あらかじめご了承ください。
クリスチャンとしては、詳しく知る必要は、そんなにはないと思いますもので。
仏=人が悟りを開いた、ということですよね?
はい、たぶん、だいたい、それでいいんじゃないかと思います。「如来」ということもあります。ほかにも、思っているよりたくさんの名前があったと思います。
なんというか、なんだったかな・・
階梯(「かいてい」※字、全然違ったかも)というのが52か53あって、「菩薩」というのがたしか40くらいなんです。仏は最後の52とか53とかなんです。「菩薩」というのは、たぶん、そうだったと思いますが、仏になる道のりみたいのに入った、なんかこう、時間を抜きにすると、いつか仏のいなるであろう確定的な状態のことです。

2007年
12月19日
21:48

「仏」。最後の二つが微妙なんです。「仏」になってる状態と、さらに、自分が「仏」であることがわかってる状態、微妙ですが、カイテイが一段違います。などなど、ここらへんのことは、華厳経の中の「十地品(じゅっちぼん)」に書いてある事柄です。独立して「十地経(じゅっちきょう)」になっちゃってるくらい、仏教ではたぶん重要な箇所です。十地というのは、菩薩の歩む道のりのことで、カイテイの40だったか41だったかからがそれなわけです。第一地が「歓喜地(かんぎち)」、第2地が「離垢地(りくじ)」、第3地が「発光(ほっこう)」だったと思います。4からは覚えてません。第1地と第2地は地続きみたいなもんだったと思います。

神には出来ないことはないので、仏教の教えは、ある程度までの、なんというかこう、名古屋行くんだったら電車か車だよな・・普通。とかの話だと思います。当てはまる人も多いけど、神には出来ないことはないので、必ずしもそうじゃないぜ! だと思います。
なお、十地品等に書かれていることは、歴史的に、いろんな哲学とか思想とか、かなりの人が書いたりしていることだと、個人的には思っています。
そして、
そんな、わけわからないくらいのことより、
今となっては、私、クリスチャン、主に委ねて生きたいです。

Masaさんに返信させていただいていると、聖書の言葉が浮かんできます。そういうことが多いです。ありがとうございます。

といいつつ・・

なんだったかな・・

今日のことだったけど・・



思い出しました!

神に出来ないことはないということと、
主は仕えるためにきたということと、
なので、私たちも、仕える者にならないと思います。

親しい人が離れてしまったすることは悲しいです。
でも、
(おおざっぱな言い方になりますが)
その相手に仕えられるためではなく(なんというのでしょう、極端に言うと、自分の、精神的所有)ではなく、
仕える者であれば、

主が賛美されますように☆

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