トクトル

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トクトルさんの日記

(Web全体に公開)

2008年
12月07日
18:55

十字架の言葉には。

今年も12月になった今年最後の年だ。

教会でもデパートでも、そろそろイルミネーションが、光、ちまたでは、皆、クリスマス

私も正月は、ゆっくりと過ごしたいものです。

さて、今日は、主・イエス様に祈り、十字架での言葉について、書こうとおもっています。

主・イエス様は、マタイ27:46でこういいました。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」

日本語では、「わが神。わが神。どうしてお見捨てになったのですか。」

という意味です。
私は、10年ぐらい前に主・イエス様の救いに預かりましたが、この言葉にいつも疑問を

覚えていました。

なぜ、主は、主・イエス様は、このような自虐的な言葉をつかったのか?

聖書は、神からの愛のラブレター手紙であり、私達を教え導く為のものです。

何の意味もなく、御自身がみすてられたのですかという不可解な言葉を使うわけは、ありま

せん。

しかも、主・イエス様が、私達を救う為に十字架にかかられているときに、

この言葉は、それだけとても重要な言葉であります。

聖書を読む上で・・。

また、この「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」は詩篇22:をみるとこう書いてあります。

詩篇22:1 我が神、我が神、どうして、私をお見捨てになったのですか。とありますが、

つづきがあります。

遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきの言葉にも。

2 わが神。 昼、私は呼びます。

私達は、善と悪との中間の人間です。

そして、神は、私達に自分の心のままにいきれるようになされました。

それは、主・イエス様が私達の救い主でありました。人の自由意志を束縛したくなかった

のです。
主・イエス様は、お見捨てになるかたではありませんが、人が何か困難にあい、願いがか

なわなかったり、また、正しい行いをしない=神をおそれなくなることがたたあります。

そして、多くの人が残念ながら、耐え忍ぶのをやめてしまい、自分のかってな神をつくっ

てしまうこともあるでしょう。

だから、聖書の教えの中でもこの「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」=神をおそれるも

もの=正しい行いをするこが大事です。

仏典にもこういう言葉があります。悪人と善人のとくしつはそれぞれ違っている。

悪人の特質は罪を知らずそれをやめようとせず、罪を知らされるのをいやがる。

善人の特質は善悪を知り、悪であることをしればやめ、悪をしらせてくれた人に感謝する。

とあります。

この人達は、水一杯人にあたえる正しいひとです。

神を愛するひとは、神の掟を愛します。ヨハネ:15をみると私はブドウの木である

と、主・イエス様はいいます。

そしてヨ:15、4 私にとどまりなさい。 私もあなたがたの中にとどまります。

枝がぶどうの木についてなければ、えだだけでは実を結ぶことはできません。

主・イエス様は正しい方ですから罪を犯し罪を改めない人に神の救いを与えては、くれま

せん。
だから、私達は、聖書を読み罪をしり、罪を改め、主・イエス様の十字架に預かれるよう

に努力の祈りをする必要があり、待ち望むならば、神は正しいかたなので、その人に真理

のみ言葉を与えその人の心の実は甘くなり、最後、キリストのかおりをはなつように、

なり、天国へといざなわれます。

主・イエス様は、王でありながら、馬小屋でうまれました。

私達の罪をみずから、背負い、今も私達の杖となり支えてくださります。

主・イエス様は、自由意志を与えてくださり、また私達一人でも多くの人が、主・イエス

様の十字架を受け入れるのをまっています。

主には、放蕩息子も、立派な子も関係なく、愛し、私達をすくってくださります。
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